オイストラフ指揮ベルリン響のショスタコーヴィチ交響曲第10番(1972.9.29Live)を聴いて思ふ

shostakovich_10_david_oistrakh222ヴァイオリニストの指揮というのは、(おそらく本人的には意識していないことなのだと思うが)弦楽器群に対するこだわりが非常に強く、かつ細心の注意を払いながら各々の楽器を鳴らすことに注力するお陰で、音楽の流れが一切遮断されず、強弱の機微含め流れるような旋律に魅力がある(ように思う)。
その意味で、マキシム・ヴェンゲーロフの指揮も(ヴァイオリン奏者としての彼に及ぶべくもないが)大変に素晴らしかった。音楽は大きくうねり、金管群が咆え、木管群が歌い、弦楽器が時に絶叫を上げるや時に内緒話を披露した。

ドミトリー・ショスタコーヴィチとも絆の深かったダヴィッド・オイストラフの指揮する交響曲第10番は、極めて正統なフォルムの内に、恐るべき魂の奔流が垣間見える熱狂的な演奏である。間違いなく彼はここで作曲者に大いなる共感を示す。
第1楽章モデラートの序奏の低弦による深い瞑想は、ようやく雪解けに向かうソビエト国家への祝勝の前触れであり、オイストラフは奥底に刷り込まれたショスタコーヴィチの想いを丁寧に汲み上げ、情感を込め、見事な棒を披露する。そして、クラリネットからヴァイオリンに引き継がれる第1主題の透明な響きたるや!!さらには、フルート独奏による第2主題のかそけき歌には、ショスタコーヴィチと祖国ソビエト連邦への愛が投影される。

・ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93
ダヴィッド・オイストラフ指揮ベルリン交響楽団(1972.9.29Live)

第2楽章アレグロの疾風怒濤は、およそヴァイオリニスト、オイストラフの表現には見当たらないもの。不要なものを徹底的に削ぎ落とし、ショスタコーヴィチの魂だけを赤裸々に伝えようとする。僕は小太鼓の乱打に乗る金管群のファンファーレに腰を抜かした。
第3楽章アレグレットは哀しい音楽だ。作曲者が自身の署名を音化した第2主題(D-Es-C-H)の勇猛かつ確信に満ちた音調こそこの交響曲におけるクライマックスであり、二枚舌ショスタコーヴィチの本心(痛み)が紡がれる重要シーン。オイストラフの、終結に向かい音楽が加速してゆく様、静けさに溢れるコーダの諧謔性に感動。
さらに、終楽章アンダンテでは、極めて人間的な心の叫びが時に暴力的に、時に情緒的に歌われる。

ダヴィッド・オイストラフの指揮は実に堂に入り、音楽が躍動する。
ショスタコーヴィチが、第10交響曲初演直後、1954年の新年に出した公のメッセージには次のようにある。

芸術にとってもっとも不幸であるのは、それが均質化されたり、いかに良いものであれ、たったひとつの型にはめられることです。作曲する際にそのような方法をとれば、個性を削ぎ落とし、固定観念を育み、盲目的に模倣することになるでしょう。その結果、創造的発想は膨らむことができなくなり、芸術から発見の喜びが消えます。
ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P246

常に命を脅かされる状況にあったにもかかわらず、ショスタコーヴィチはいつもチャレンジングだった。いかにも体制、社会主義リアリズムへの反論のようにもとらえられるが、この後の言でそのあたりを曖昧にし、結局体制に迎合するところが彼らしい。

社会主義リアリズムは、芸術家の発想に驚くべき広がりをもたせてくれます。創作の際に個性が最大限に発揮され、この上なく多様なジャンル、方向性、様式を自由に発展させることができるのです。ゆえに、芸術家のあえてことに挑む姿勢を支持すること、その作品に独自の特徴があるか否か検討すること、そして芸術上の選択肢の長短を理解した上で、芸術家に自主的かつ大胆に創作し、新規さを追究する権利を認めることが、きわめて重要になってくるのです。
~同上書P246-247

嘘だろう・・・。
ショスタコーヴィチは言葉では語らない。
彼は音楽のみで本意を語るのだ。
そして、それを同時代者ダヴィッド・オイストラフが余興とは思えない見事な指揮で再現するのである。もしもオイストラフがもう少し長生きし、指揮者としてより活躍する場をもっていたなら現代の演奏史は少しばかり塗り替えられていたかもしれない。

 

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