ベルンハルト・クレー指揮デュッセルドルフ響のシューマン「レクイエム」(1983.7録音)を聴いて思ふ

schumann_choral_works350天才を見出し、天才を啓蒙するという点で、ロベルト・シューマンこそ真の実力者だと思うが、その彼をして影響を与えたのがフランツ・リストその人である。特に、劇作品におけるリストの慧眼は他を冠絶する。

例えば、彼はシューマンの劇作品「マンフレッド」や「ファウスト」、あるいは歌劇「ゲノフェーファ」の上演に重要な役割を果たす。そしてまた同じ頃、彼はリヒャルト・ワーグナーにも大きな影響を与える。

私は新たなドラマの創作(=すなわち「ジークフリートの死」)に対して心底から嫌気がさすのを思い知ったのであった。そして、私の創作活動は終わったのだということを、正直に告白しなければならないと思った。―そのとき、一人の友人が私を失意のどん底から助け起こしてくれたのだ。私が孤立しているわけではなく、―かつて私から最も遠いところにいたというような人びとからさえ―十分に深くそして心から理解されていることを、きわめて徹底的かつ感動的に証明することによって、彼は私を改めて、そして今こそ完全に芸術家にしてくれたのである。この驚嘆すべき友人とは
フランツ・リストである。―
ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P383

つまり錯覚と誤解が(歌劇「ローエングリン」)所期の成功を妨げていたのである。欠けているものを補って、あらゆる方向に向けて理解を得ると同時に成功を収めるためには、何をすべきだったのだろうか?リストはそれを即座に理解し実行した。彼は、作品について彼自身が考察し感じたことを聴衆に示したのだが、その仕方は、説得力に富む雄弁と人の心を奪う作用において、かつて類例を見ないものであった。彼は成功によって報われた。この成功とともに彼は私の前に歩み出て、私に呼びかけたのである。見たまえ、私たちはここまでなしとげたのだ。さあ、もっと大きな成功を収めるために、新しい作品を作ってくれたまえ!と。―
事実、私に新たな芸術上の仕事に着手することへの強い決意を喚起したのは、この呼びかけと要請だったのである。
~同上書P388

フランツ・リストなくして「ニーベルンクの指環」は存在しなかったことになる。もちろんリストなくしてワーグナーは愛するコジマとの出逢いもなかったわけだからワーグナーにとってリストこそ最大のパトロンであったと断言できる(ルートヴィヒⅡ世以上に)。

ワーグナーがこの論文を発表した1851年頃、ロベルト・シューマンにはすでに病の兆候があった。そして、精神的に危ういシューマンが行き着いた先は宗教音楽であった。

シューマン:
・レクイエム変ニ長調作品148
ヘレン・ドナート(ソプラノ)
ドリス・ゾッフェル(コントラルト)
ニコライ・ゲッダ(テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・ミニョンのためのレクイエム作品98b
ブリギッテ・リントナー(ソプラノ)
アンドレア・アンドニアン(ソプラノ)
メヒティルト・ゲオルク(コントラルト)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
デュッセルドルフ州立楽友協会合唱団
ベルンハルト・クレー指揮デュッセルドルフ交響楽団(1983.7.2-6録音)

心に苦痛を感じるとき、魂は安寧を求める。晩年のシューマンも実に苦しかったことだろう。そして、その拠り所としていくつかの宗教作品が生まれたのである(彼はこの作品を誰の頼みでもなく自発的に生み出したという。天才だ)。ところが、「レクイエム」には不思議に重苦しさや哀しみの表情がない。もちろん抹香臭さもなく、実に解放的で明快。その意味では非常に俗的な鎮魂曲。

ロベルト・シューマンにとってフランツ・リストはかけがえのない存在だった。1830年代から交友を深めた二人は、互いに自分の作品を相手に捧げるようになる。1839年にはシューマンが「幻想曲」作品17をリストに献呈、逆にリストからは1854年に傑作ロ短調ソナタが献呈されている(とはいえ、この頃既にシューマンは病床にあり、この作品の実演には触れていない)。

リヒャルト・ワーグナーにとってもリストは恩人だ。
フランツ・リストなくして現代の音楽は存在し得なかったのかも。

 

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