クレメンス・クラウスの荘厳ミサ曲(1940.11.5Live)を聴いて思ふ

beethoven_missa_soleminis_krauss国境というのは本来存在しない。人間が作り出した幻想のようなものだから。ジョン・レノンは”Imagine”の中でそのことを歌い上げたが、いつになったら駆け引きや醜い諍いや、戦争がなくなるのだろう。
地続きの大陸と比較し、日本は島国であるゆえ他国から脅かされることは歴史上多くはなかった。とはいえ、いつのどんな時代においても人々は敵の襲来に怯え、防衛のためにエネルギーとお金を費やす。
こちらを立てればあちらが立たず。人の概念は360度様々だ。行動を起こせば功罪両面が明らかになる。何もしないことこそ平穏の鍵であろうが、そうもいかず。

ことによるとメンゲルベルクの「マタイ受難曲」(1939年4月2日、アムステルダム・ライブ)に匹敵する演奏かもしれぬ。
古いながら鑑賞に堪える録音から、鬼気迫る雰囲気と音楽に託す祈りの深さが感じ取れる。

箱ものというのは得てしてそのすべてを聴かずじまいで棚の奥底に長い年月寝かされてしまうことが多い。ウィーン・フィルハーモニーの創立150年ボックスからクレメンス・クラウスの荘厳ミサ曲を取り出して、おそらく初めて真面に聴いた。

音楽の沈潜してゆく様と、深い瞑想に満ちた「キリエ」を耳にして思わず僕は唸った。何という思い入れたっぷりのテノール独唱であり、ソプラノ独唱であり、アルト独唱であることか・・・(ベートーヴェンが自筆譜の「キリエ」冒頭に記した「心より出、そして再び、心に還らん」という言葉を体現する)。
それもそのはず。レコーディング・データをチェックすると、1940年11月5日の、楽友協会大ホールにおける実況録音なのだから。

当時のヨーロッパ社会は、そしてオーストリアは第二次大戦の渦中にあった。
しかも、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍が破竹の勢いで他国を侵攻し、国境がことごとく塗り替えられていたという時代・・・。

・ベートーヴェン:ミサ・ソレムニスニ長調作品123
トルーデ・アイッペルレ(ソプラノ)
ルイーゼ・ヴィラー(アルト)
ユリウス・パツァーク(テノール)
ゲオルク・ハン(バス)
フランツ・シュッツ(オルガン)
ウィーン国立歌劇場合唱団(1940.11.5Live)
・ストラヴィンスキー:「プルチネルラ」組曲(1949年改訂版)(1952.3.9Live)
・デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」(1953.1.3Live)
クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「グローリア」における華麗なる合唱の絶唱とそれに応えるオーケストラの灼熱の響き。続く「クレド」における輝かしい信仰宣言。
そして、静けさに満ちる「サンクトゥス」の感謝を湛える美しさと、崇高なオーケストラ前奏及び涙に濡れるヴァイオリン・ソロ(コンサートマスターはワルター・バリリか?)に導かれる「ベネディクトゥス」の大いなる祝福の音楽が聴く者を金縛りにする。
そして、白眉はむせび泣くような「アニュス・デイ」の粘る独唱と合唱の祈りの念!!

こういう音源を聴くにつれ、音楽というものがやはり時間と空間の芸術であることを痛感する。あの暗澹たる時代に、音楽をするものは何を思い、そしてそれを享受する人々は何を感じていたのだろう。

 


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