僕たちは身体に固執するあまり意識を自由に飛翔させることを怠った。
なるほど、閉じられた世界の扉を開ける方法のひとつに音楽があるのではないかと思った。
限定された枠から外に飛び出そうとする遠心力。例えば、ジャズ音楽に在る即興性、あるいはロック音楽に聴く暴力性。一方、自由な発想を決められた枠の中で一層自由さを獲得する求心力。例えば、ハイドンやモーツァルト、あるいはベートーヴェンという独墺古典派音楽。
フランス、エクサンプロヴァンス生まれでありながら、どちらかというとドイツものにシンパシーを覚え、得意とするエレーヌ・グリモーのガーシュウィンとラヴェルは、遠心力と求心力の両方をあわせもつ、ある種特異な演奏だ。双方ともクラシック音楽でありながらジャズ的要素を持ち、ジャズ音楽的でありながらヨーロッパ・クラシック音楽の伝統に則った作品であるゆえ、グリモーの、ジャンルの境界を跨ぎつつ踏み外すか踏み外さないかというギリギリのラインで留まる妙味は、とても20代後半のピアニストの演奏とは思えないもので、ほとんど人間離れしている。おそらく本人には自覚はなかったはず。やはりこの人は類例のない天才肌。真に不思議な「人」である。
・ガーシュウィン:ピアノ協奏曲ヘ調
・ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
デイヴィッド・ジンマン指揮ボルティモア交響楽団(1997.5録音)
ガーシュウィンの第2楽章アダージョ―アンダンテ・コン・モートの静謐さと叙情性こそエレーヌ・グリモーの真骨頂。後半の、美しい管弦楽の伴奏に映える恍惚としたピアノの調べに感涙。そして、終楽章アレグロ・アジタートの勢いと即興的調べを見事に、しかもいかにも容易く表現する彼女のピアノは冴えに冴える。しかし、やっぱりこの演奏の白眉は、古典的ソナタ形式を持つ第1楽章アレグロに見る規則性の中で奔放に遊ぶピアノであり、ソフィスティケートされた音楽的センスである。一言で表現すると「あまりにかっこいい」のだ。
ジョージ・ガーシュウィンとモーリス・ラヴェル。
ガーシュウィンがアメリカ旅行中のラヴェルに弟子入りを所望した際、ラヴェルが答えたといわれる言葉はあまりに有名。
Why be a second-rate Ravel, when you are a first-rate Gershwin?
どうして二流のラヴェルになりたいんだい、君はすでに一流のガーシュウィンなのに。
冗談であれ本気であれ、ラヴェルらしいウィットに富んだ言葉である。
そしてまた、ラヴェルは次のようにも言及しているそう。
後に書いた2つのピアノ協奏曲はアメリカで聴いたジャズやガーシュウィンの音楽の影響を強く受けているのだ。
エレーヌ・グリモーのラヴェルは実に繊細で美しい。
第2楽章アダージョ・アッサイの、あまりに柔らかで愛らしい音楽に感動。第3楽章プレストにおける、理想的なテンポで繰り広げられる音の万華鏡。
願わくば彼女の、ラヴェルのもうひとつの協奏曲や独奏曲を聴いてみたいもの。きっと音楽という枠を超えた素敵なラヴェルが繰り広げられるような予感がする。
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