デュトワ指揮バイエルン放送響のオネゲル交響曲第3番「典礼風」(1982.12録音)を聴いて思ふ

honegger_detoit西洋的思考というのは「二元論」であり、逆に東洋のそれはすべてを包み込み「一元論」にあるといわれる。西洋クラシック音楽の理屈自体が陰陽の対比にあるが、とはいえその差が単に激しければ良いというのではなく、絶妙な調和の中でそのことが表現されることに傑作であるかないかの境界があるのではと思った。

アルテュール・オネゲルは自身の第3交響曲について次のように述べる。

私がこの曲に表そうとしたのは、もう何年も私たちを取り囲んでいる蛮行、愚行、苦悩、機械化、官僚主義の潮流を前にした現代人の反応なのです。周囲の盲目的な力にさらされる人間の孤独と、彼を訪れる幸福感、平和への愛、宗教的な安堵感とのあいだの戦いを、音楽によって表そうとしたのです。私の交響曲は、言わば、3人の登場人物を持つ1篇の劇なのです―その3人とは、〈不幸〉〈幸福〉そして〈人間〉です。これは永遠の命題で、私はそれをもういちど繰り返したにすぎません・・・。
(濱田滋郎訳)
~ライナーノーツより

作曲家自身が評論家ベルナール・ガヴォティのインタビューに対して応えている言なので間違いはないのだが、こと音楽を聴いてみると、楽章ごとの相反する楽想が実は見事に連関しており、「二元論」どころか真にひとつに統合された作品として僕たちの前に現出していることを、シャルル・デュトワの演奏を聴いて確信した(もっとも当人は3人の登場人物を持つ1篇の劇だと言っているのだけれど)。天才とはやはり介在意識と潜在意識が別で動いており、本人の意志とは違った次元で物事を起こす人なのだろうと想像した。

オネゲル:
・交響曲第3番「典礼風」
・交響曲第5番「3つのレ」
シャルル・デュトワ指揮バイエルン放送交響楽団(1982.12録音)

戦争末期の悲惨な状況の中でのオネゲルの祈りは本当に深い。
実際には天国も地獄もないのだけれど、イエス・キリストが過去を含めたすべての人間に「天国か地獄か」という審判を下す「怒りの日」を第1楽章に据えているところが、介在意識のオネゲルの抵抗といったところか。冒頭からデュトワの棒は炸裂する。金管の意味深い咆哮といかにも恐怖を煽る音楽に懺悔する。
そして、その怒りを鎮めるために書かれたであろう第2楽章「深き淵より」における癒しの音調に感動。さらに、第3楽章「われらに平和を」における、断固とした主張のホルンの奏する主題にショスタコーヴィチの片鱗を見、後半のアダージョでようやくひとつにならんとする音楽美。その静けさにより、オネゲルの潜在意識にある真の人類愛に僕たちも目覚めるのだ。

しかしながら、そもそも戦いというものが、争いというものが存在しないのだとしたら?
表と裏があるものを、明るいものと暗いものがある世界を、あえてそんな風にとらえずひと括りにしてみたら?

音楽こそは世の東西を問わず人々を平和に導く、人々の心を穏和にする方法なのではないかとあらためて思った。
オネゲルが「永遠の命題」と言ったことは確かにそのとおり。
そんなことが即座にできたら人間は皆人間でいられなくなるだろうから。
それでも、現代の、すべての嘘が暴かれる諸相に、そろそろ僕たちはエゴを捨て生まれ変わらなければならないのではないのかと・・・。
(第5番「3つのレ」についてはまたいつか)

音楽は人々の内に眠る「神」を喚起する。

 

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