内田光子のシューベルトD845&D575(1998.8録音)を聴いて思ふ

schuberut_16_9_mitsuko_uchida379今や内田光子は実演を聴き逃してはならないピアニストの一人だと痛感した。
ffの濁りのない強靭な音、そしてppの吃驚するほど優しくて静謐で、それでいて芯があるものだから遠くにまではっきりと行き渡る音、また、強音から弱音への、そしてテンポの遅いフレーズから速いパッセージへの音の移ろいの妙、さらに、一瞬の「間(ま)」の天才。どこをどう切り取っても、彼女の呼吸とともに生み出される音楽を、その同じ空間で享受するべきだと、あらためて思ったのである。
昨日の、シューベルトの「即興曲集」の音楽しか感じさせない、いや、強いて言うなら最晩年のシューベルトの魂だけが刻印された表現は、かつて彼女がPHILIPSに録音したものからは明確に聴き取れなかったもの。

おそらく彼女の音楽は録音には入り切らないのであろう。
確かに音盤でも解釈の大枠ははっきりわかる。僕たちの心を惹きつけ、魂を癒してくれるであろうニュアンスも明瞭だ。それでも、彼女のピアノとはどうしても時間と空間をともにせねばならない。

内田光子のシューベルトは、どれも儚い。
未来への希望を託しながら、それでも早世せざるを得なかったシューベルトの怨念のようなものすら感じる時もある。内から滾々と湧き出る音楽を、ともかく記譜するのに頭と手が間に合わなかったかのように、シューベルトの音楽は時に終わりを知らない。ここには永遠が閉じ込められているのだ。

この終わりのない音楽を、内田光子は丁寧に、命を込めて歌う。

シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第16番イ短調D845
・ピアノ・ソナタ第9番ロ長調D575
内田光子(ピアノ)(1998.8録音)

1825年のシューベルト。
山岳を旅したときに見た、山々の威容に彼は嘆息をもらす。ちっぽけな人間と壮大なる自然の対比。彼は自身の音楽に自然、宇宙の美を刻印した。

山々はしだいに険しさを増し、とくに由緒あるウンター山は魔法の世界のように他の山々から抜きんでて威容を誇っています。・・・陽が翳ると、重い雲が霧の霊のように黒々とした山々をかすめてゆきます。でもそれはウンター山の頂にふれることはありません。雲はその威厳あるたたずまいに恐れをなすかのように、それを避けてゆくのです。
(兄フェルディナント宛手紙)
喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P263

同年作曲されたイ短調のソナタは、この数年後の、いわゆる最晩年のソナタに優るとも劣らぬ透明さと崇高さをもつ。
とりわけ第2楽章アンダンテ・ポーコ・モッソに聴く幽玄美。身体から魂が抜け去ったかのような純白の音楽。28歳にしてすでに悟りを得たかのような高み。このかけがえのない音楽を内田光子は丁寧に語り、そして歌う。
息抜きのように踊る第3楽章スケルツォを経て、終楽章アレグロ・ジュストに木魂する「冬の旅」のさすらいと孤独。
第22曲「勇気」が弾け、第23曲「3つの太陽」が光輝を放つ。

一方、1817年に生み出されたロ長調ソナタ。ここにあるのも間違いなく青年シューベルトの夢の中の世界。そこには挫折があり、また希望がある。内田光子のピアノは限りなく可憐でありながら実に幻を追う如く。
これらの作品もやっぱり実演を聴くまではその真価はわかるまい。

 

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