自由と自己責任

朝からとある研修ルームに缶詰状態。企業研修のシミュレーション。そこそこのキャリアを持つ6名のコーチや講師が一同に会し、いくつか定められたプログラムをこなしていく。さすがに誰しも人前で話すことは慣れているらしく、各々長所短所ありながらも淡々とことを問題なく進めていく。

新入社員研修がテーマ。何だか本質的なところに触れるのではなく、決められたことを決められたようにいかに回していくかが最大のポイントである。ルーティンといえばルーティンだし、講師の個性や人間性が自ずと問われるといえば問われる。ある意味場数をこなすことが重要な要素のようにも思える。いずれにせよ、可もなく不可もなく、危ない橋を渡らず「うまく」進めていくことを要求される。

終了後、共に講習に参加した数名と杯を酌み交わした。意外なところで共通の話題もみつかり、ほんのちょっとひっかけようという予定が都合2時間近く滞在する。僕はしばらくサラリーマン的な世界から遠ざかっているので、これまでその手の話題には疎かったが、委託講師とはいえサラリーマン的な「飲みニケーション」の世界があることや軍隊的な人間関係の話を聞くにつれ、いまだにそういう風習、習慣があるところにはあるんだと妙に感心しながら聴いていた。

帰りがけ、大江戸線に乗りながら、例により頭の中を音楽が駆け巡る。

リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」作品20
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

シュトラウス初期の名曲。17世紀スペインの伝説の放蕩児ドン・ファンがモチーフ。とにかく女好きのとんでもないプレイボーイである。交響詩は基本的に標題音楽だから、メロディには本来意味がある。しかし、そういう表題を無視して純粋に楽曲に耳を傾けるが良い(タイトルはむしろ邪魔である)。シュトラウスの書く管弦楽曲はとにかくかっこいい。しかも、有機的な響きを醸し出す巨匠フルトヴェングラーの指揮するこの音盤は他のどの指揮者の盤以上に圧倒的「美」を誇る。同じCDに収められている「ティル・オイレンシュピーゲル」も「死と変容」も圧巻。

型にはまらず、自由に生きたいのだ。しかし、放蕩の限りを尽くした無責任極まりない行動の果て、地獄に引き込まれてしまったドン・ファンのような「自由」が欲しいのではない。あくまで、自律した「自由」。それには「自己責任」という重圧もつきまとう。

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