フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第7番(1951.5.1Live)を聴いて思ふ

bruckner_7_furtwangeler_bpo_1951277アントン・ブルックナーをひとつの崇高なる対象として捉えるのではなく、あくまでひとりの人間として理解し、その彼の内側にある信仰心を表現しようとしたのがフルトヴェングラーのブルックナー解釈だったのだと腑に落ちたとき、僕はようやく「フルトヴェングラーのブルックナー」を受け容れることができた(ように思う)。
音楽芸術の真底に神が宿るのだとしても、媒介となるのは下世話な人間なのである。その事実を横に置きっ放しで音楽芸術をひもといても、おそらく真の意味での作品理解にはつながるまい。いや、つながらないどころか、作品に対する誤解の始まりになるのが落ち。
音楽は古来、大衆にもっとも身近なものであり、難解なものでなく、ましてや決して哲学的なものではなかったであろうゆえ。

もう一度くり返して言っておきたいと思います。―真の「普遍妥当性」は、上と下との間になんの合一しがたい対立もなく、国民的=卑俗なものの中に、神のような自然の高貴な恵みが盛られているところ、至高また崇高なものの中に、芸術家が愛する大地の母胎を、足下に失わないでいるところ、―ただそこにのみ普遍なるものが存在しているのです。
さて私たちの出発点に戻ることになりますが、―まさにこれこそ―アントン・ブルックナーの場合であります。それゆえにこそ私たちは彼を愛惜してやみません。彼の音楽の中には、およそ人間の感覚の全段階を貫いて、あの不滅者とのより純真な、より端的な結合の中に参与していないいかなる音もありません。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P180

1939年の、フルトヴェングラーによる「アントン・ブルックナーについて」という小論の一節である。同時代に生きない僕たちが、そしてその実演に触れることのできなかった僕たちがこの人のブルックナーに対して云々するのは控えた方が良い。
少なくとも残された録音を真摯に聴く限り、彼のいう「普遍妥当性」は見事に刻印されているのだから。何と地に足の着いた、意志に満ちるブルックナーであることか。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(改訂版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.5.1Live)

カイロでの録音(グラモフォン)から1週間後のローマでの実況録音。
録音会場のせいもあるのかどうなのか、音楽は一層熱を帯び、勝利の凱旋の如く締め括られる。
なるほどフルトヴェングラーの意志が最も顕著であるのは第2楽章アダージョだ。特に、コーダ直前のクライマックスにおける(不要な)打楽器の追加は、ここにこそ「神のような自然の高貴な恵み」に対し、「卑俗なものが」盛られた瞬間があり、そこにフルトヴェングラーのいう「普遍妥当性」が映し出されるのである。
そして、第3楽章のトリオに聴く情熱的で官能的な音楽の、あまりの人間臭さに感動。
また、終楽章の一切の感情を排した純音楽的アプローチと、ブルックナー得意の休止をさらに引き伸ばしたフルトヴェングラーの全休止に見る永遠性に心動かされ、コーダでの荒れ狂う猪突猛進的加速に圧倒されるのである。

確かにここには一回限りの、再現不能の真実がある。

 

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