朝比奈隆が亡くなってからブルックナーの第7交響曲の実演には触れていない。
あれ以上のものがもはやないのではないかという感覚(思い込み)が僕の中にあるから。
例えば、第1楽章アレグロ・モデラートの、ノヴァーク版ではアッチェレランドの指定になっているが、ハース版ではその指定のないコーダを、微動だにせず悠揚たるテンポで推し進める演奏を僕は朝比奈以外に聴いたことがなく、間違いなくあの部分は朝比奈の方法以外にないと考えることがその理由として大きい。そのせいか、彼以外の演奏のほとんどがせかせかした忙しないもので、ブルックナーの祈りを体現するにはあまりに人間臭すぎ、音楽を矮小化する要因になっているように思えてならないのである。
永遠不滅の名演奏であり、後世に正しく残されたことへの感謝の絶えない最高の記録。
果たして生粋の、彼の地のブルックナー愛好家がどう思ったのかは定かでない。
しかしながら、40年前、聖フローリアン修道院のマルモア・ザールで繰り広げられた、極東の一地方オーケストラによる一世一代の演奏は、おそらく時空を超えて(地下に眠る)作曲者の魂の琴線に触れたことだろうし、少なくともその場に居合わせた聴衆は、言葉にし難い感動を得られただろうことは容易に想像がつく。かつての2枚組のアナログ盤で聴く、延々と続く終演後の拍手喝采の凄まじさがそのことを物語る。
白眉は第2楽章アダージョ。
ブルックナー最美のこの音楽は、リヒャルト・ワーグナーの死に際して付け加えられた哀惜のコーダの、ワーグナー・テューバのそこはかとない深い響きに止めを刺すが、何より冒頭第1主題の呼吸の深さが象徴的であり、ここでの朝比奈の嘆息の表情が絶品。そして、第2主題のあまりの切ない美しさに身も心も焼け付くよう。何という懐かしさ。
さらには、クレッシェンドで上り詰めてゆくクライマックスまでの墨絵のような単色の、それでいて複雑なグラデーションを示す絶妙なフレージングにあらためて快哉を叫ぶ。
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1975.10.12Live)
第3楽章スケルツォも堂々たる足取り。
さらには、小粒とはいえ開放的な終楽章の、得も言われぬ荘厳さに脱帽。この楽章も、コーダでの朝比奈の圧倒的解釈がものをいう。
ひょっとするとこれらは僕の思い込みかもしれない。
あるいは、初めて耳にしてから35年という月日の刷り込みもあるかもしれない。
この演奏を冷静に、かつ客観的に聴くことがもはや僕にはできないのである。
十分な間合いを持たせて第2楽章の最後の和音が消えた時、左手の窓から見える鐘楼から鐘の音が1つ2つと4打。私はうつむいて待った。ともう一つの鐘楼からやや低い音で答えるように響く。静寂が広間を満たした。やがて最後の鐘の余韻が白い雲の浮かぶ空に消えて行った時、私は静かに第3楽章への指揮棒を下ろした。
~朝比奈隆著「楽は堂に満ちて」(中公文庫)P184-185
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