記憶は人を作る。人間には生まれ育った土地や環境から得た習慣というものがある。
最たるものは言葉。言い回しやイントネーションや、いわゆる方言というものは、どんなに標準語を習得し、それを使うようになって久しいとしても身体の奥底には根付いているもの。人はやっぱり母語で物事を考えるもの。
なるほど、土地にはそれぞれ踊りがある。そして、踊りは古来音楽と結びつく。ならば音楽にもその国、土地ならではの独特の言い回し、雰囲気というものが必ずあるということ。
新しい、初めて聴いた作品でも、誰の影響を受けているのか、あるいはどこの国の音楽なのかは熟練した耳を持っていれば即座にわかる。その人にこびりついた「言語感覚」、すなわち「音の感覚」というものはどんなにそれを隠そうとしても他人にはわかってしまうものだ。
スロヴァキアの作曲家(指揮者)、ルドヴィート・ライテルの管弦楽作品集を聴いた。
どの作品も実にわかりやすい。音楽は実にハンガリー的であり、例えば、バレエ「ブラチスラヴァの五月祭」組曲などはゾルタン・コダーイの匂いがするものだからハンガリーの人かと最初は想像したほど。しかも、つい先年(2000年)まで存命で、彼はヴァーツラフ・ターリヒ等とスロヴァキア・フィル創設に関わり、その後はチェコ音楽界を長く牽引したというのだからこれまで作品はおろか演奏すら聴く機会を逸していたことを恥じるほど。
世の中に知らないことはまだまだ多い。
ライテル:管弦楽作品集
・管弦楽のためのディヴェルティメント(1932)
・交響的組曲(1933)
・バレエ「ブラチスラヴァの五月祭」組曲(1938)
・大管弦楽のためのシンフォニエッタ(1993)
・インプレッション・ラプソディ(1995)
ダヴィト・ポルセリーン指揮ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団(2009.9録音)
晩年の2曲が素晴らしい。過去の懐古と現在を謳歌する風趣。わずか15分ほどのシンフォニエッタは、映画音楽さながらわかりやすい主題と安らぎに満ちた音調が魅力的。特に、(誰の追悼なのか不明だが)「・・・を悼んで」と題する第3楽章アンダンテ,ウン・ポコ・ソステヌートの深く静かな狂気に心動く。
また、ベラ・バルトークを思わせる弦楽合奏のための「インプレッション・ラプソディ」の、いわば内燃する(冷たい)熱に火傷しそうになるほど。そう、重厚な低弦の上に流れるように奏される高弦の旋律の躍動に戦慄するのである。嗚呼、暗澹たる美しさ。
写真を見る限りでは、表情や仕草が若杉弘とかぶる。
この人の指揮についてはよく知らないので、どんな演奏したのか非常に興味深い。
母は、「プチット・マドレーヌ」と呼ばれるずんぐりしたお菓子、まるで帆立貝の筋のはいった貝殻で型をとったように見えるお菓子を一つ、持ってこさせた。少したって、陰気に過したその一日と、明日もまた物悲しい一日であろうという予想とに気を滅入らせながら、私は何気なく、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、お菓子のかけらの混じったそのひと口のお茶が口の裏にふれたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいたのだ。おかげでたちまち私には人生で起こるさまざまな苦難などどうでもよく、その災厄は無害なもので、人生の短さも錯覚だとおもわれるようになった―ちょうど恋の作用が、なにか貴重な本質で私を満たすのと同じように―。
~マルセル・プルースト著/鈴木道彦訳「失われた時を求めて1―第一篇「スワン家の方へⅠ」(集英社版)P108-109
ふとプルーストの「失われた時を求めて」の有名なこの場面を思った。
記憶とは真に不思議だ。
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