ベーム指揮ウィーン・フィルのモーツァルト「レクイエム」(1971.4録音)を聴いて思ふ

mozart_requiem_bohm_vpo_1971340モーツァルト晩年の悲哀は美化され過ぎたフィクションだと礒山雅さんはおっしゃる。
なるほど、そう言われると確かに不可思議なことが多い。モーツァルトは当時としても破格の(人一倍の)俸給をいただきながらなぜ破綻し、困窮に喘いだのか?プフベルク宛の繰り返しの無心の手紙には、それこそ首の回らなくなったモーツァルトのどうにもならない窮状と感情がぶつけられるのだが、これもちょっとした演技混じりの、というか大袈裟な言い回しであると捉えることも可能。
ならばこの時、妻コンスタンツェは何を考え、何をしていたのか?
あるいはそれほどの貧困の中で2人の関係はどんなものだったのか?そのあたりが一切見えてこないのである。果たして、モーツァルト家の生活そのものは実は相応に豊かなものだったがゆえ、実際は巷間騒がれるほどの不満の爆発はなかったのかも・・・。

礒山さんの歴史背景を具に分析しての説には、正面から至極真面目に彼の状況を分析するものと、一方で様々な労苦やストレスからギャンブルに走り、プフベルクからの借金も生活のためのものではなく、自身の賭博のためのものだったのではないかというものがある。
僕には後者に真実味があるように思えてならない。根拠はないけれど。

モーツァルトは、きわめて集中力の高い精神活動をする人であった。そうした人のストレス解消はのんびり過ごすだけでは足りず、ハラハラドキドキのスリリングな行為に身を投じてこそ、可能になるはずである。そのおかげで生まれた名曲も、あることだろう。
礒山雅著「モーツァルト」(ちくま学芸文庫)P65-66

過去も現在も、すべては虚構の中に在る。
本音を見せず、表面だけのつながりで成り立つ社会活動は(そして人間存在すら)、そもそも真実を遠く離れたフィクションなのである。モーツァルトの物語も、死後に形成された嘘に塗り潰された虚構の中に在ったのだ。

そうなると絶筆「レクイエム」にまつわるエピソードもかなりの脚色ありだろう。真実は?そんなことはもはやこの際どうでも良い。
「入祭唱」冒頭「永遠の安息を」の揺れるアダージョの隠せぬ慟哭を聴け。あるいは、第8曲「ラクリモーサ(涙の日)」における合唱の壮絶さを知れ。何よりエディット・マティスの歌唱が絶品。

涙の日、その日は
罪ある者が裁きを受けるために
灰の中からよみがえる日です。

神よ、この者をお許しください。
慈悲深き主、イエスよ
彼らに安息をお与えください。
アーメン。

・モーツァルト:「レクイエム」ニ短調K.626(ジュースマイヤー版)
エディット・マティス(ソプラノ)
ユリア・ハマリ(メゾソプラノ)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)
カール・リッダーブッシュ(バス)
ハンス・ハーゼルベック(オルガン)
ウィーン国立歌劇場合唱連盟
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1971.4録音)

重厚でうねる、そしてある意味浪漫極まるベーム&ウィーン・フィルの名演奏。
30数年前から僕のこの録音への愛情は変わることがない。刷り込みと言われればそうかもしれない。でも、他のどんな演奏を耳にしてもこの演奏が随一であると僕は確信する。
モーツァルトの魂が飛翔し、死者のための鎮魂曲が、どちらかというと生者を鼓舞する勇気溢れる音楽と化す。

 

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