フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのストラヴィンスキー「妖精の口づけ」(1953.5.18Live)を聴いて思ふ

furtwangler_stravinsky_brahms_19530518357素材を見事に料理する手腕。
チャイコフスキーの美しい旋律に施された立体的オーケストレーションの妙。僕たちの耳に届く音楽は間違いなくストラヴィンスキー独自のものだ。
そして、ストラヴィンスキーのこの新古典主義時代の作品を、まるでリヒャルト・シュトラウスを表現するかのような棒でデモーニッシュに解釈するフルトヴェングラーのこれまた力量。時折顔を見せるチャイコフスキー的哀愁が涙を誘う。

例えば、第1楽章シンフォニアの第2部のリズムなどを聴くと、ストラヴィンスキーの音楽はロック音楽であると僕は思う。内在するグルーヴ感が堪らない。また、第2楽章スイス舞曲は、音の重さが気になるものの、強弱や自然な移ろいにフルトヴェングラーの音楽性の素晴らしさを確認する。そして、第3楽章スケルツォを経て奏される終楽章パ・ド・ドゥのカタルシス。簡潔にまとめられたこの作品をこれほどまでに凝縮された精神性で語るのはやり過ぎの感もなくはないが、フルトヴェングラーのすごさはやはりどんな音楽でも血沸き肉躍る悪魔的音楽に変貌させるところだ。
1953年はフルトヴェングラーの死の前年であり、病み上がりの後にもかかわらず自身に無理を強いた年でもある。自らの命と引き換えに音楽をやっていたようなもの。そういう事情を知っているがゆえかどの演奏にも彼の壮絶な想いが伝わる。

フルトヴェングラーはストラヴィンスキーを評してほとんどポピュラー音楽の如しと言った。確かに・・・。

ストラヴィンスキー。音楽自体の緊張のなかからもはや取り出せない簡潔さ、これを音楽は外部からバレエの助けを借りて獲得している。それゆえ音楽は、過去数千年間そうであったもの、すなわち実用音楽にふたたびなってしまう。
(1939年の「手記」より)

ちなみに、ストラヴィンスキーは自著で「妖精の口づけ」ディヴェルティメントについてかく語る。

私の他のバレエ作品についてと同様に、私は「妖精の接吻」から抜粋して管弦楽組曲を作ったが、それは簡素な編成のため多大な困難なく演奏できるものである。私はそれをしばしば指揮している。そして、私にとって新しい管弦楽書法を用いようと努め、一挙に掴みやすい音楽を通じて、そうした手法を聴衆に楽に明らかにできたのでなおのこと、それを指揮するのが好きである。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記」(未來社)P173-174

作曲者お気に入りのディヴェルティメント。なるほどやっぱりこれはポピュラー音楽だ。

・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
・ストラヴィンスキー:「妖精の口づけ」によるディヴェルティメント
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.5.18Live)

同じコンサートで演奏されたブラームスの激烈な響きに、この人の音楽性というのは若い頃からほとんど変わらないもので、根底の精神性が一気通貫なのだとあらためて思った。これが晩年の表現だとは・・・。もちろん当時本人は自身の生があと1年余りだということを知る由はない。だからこそ音楽はうねり、弾けるのである。終楽章コーダの巨大に膨れ上がると同時に収斂してゆく様はまるで音楽が生き物であるかのよう。
言葉がない。

 

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