西洋が東洋にまさる唯一の芸術

「茶の本」「東洋の理想」と岡倉天心の著書を読み進めているが、なるほど興味深い。単に右翼的思想、国粋主義というのではなく、明治の文明開化の際に手放しで西欧文化を取り入れようとする日本人の盲目的な行いに警鐘を鳴らすといった内容で、中ではバランス、中庸の重要性を説いている。

天心が初めて欧州を訪問した時のこと、ベートーヴェンの第5交響曲を聴いて「これこそ西洋が東洋にまさる唯一の芸術かもしれぬ」と言ったことや殊にワーグナーを好んで、コンサート会場で自分を感動させる旋律が聴こえると隣の友人の肩を叩いたという逸話が残っているのもなんとも愉快。
それに、高邁な思想、東洋の素晴らしさを声高らかに謳いつつ、実に彼自身の私生活というのは真に獣的で(笑)、何人もの女性といとも簡単に関係を持ち、子どもをもうけているというのだから、そのバイタリティたるや常人の域を超越している。聖俗入り乱れ、そしてその中にこそ「真実」を見出すという人格。人間というもの、やっぱりすべてに懸命でなければならぬ、そんな生き方すらをも学ぶことができる。

ところで、20数年前、まだ開館まもないサントリーホールで鳴り響いた至高のベートーヴェン演奏があることを思い出し、久しぶりに取り出した。数年前ようやく音盤としてリリースされ、初めて耳にしたときにはそれこそ実演で聴けなかったことを後悔した、そんな怒涛の、そして瞑想的な極めつけのパフォーマンスであり、岡倉天心が渡欧中に聴いた感動と近いであろう「運命」交響曲。ドイツ統一前の東独のオーケストラの威力を思い知らされる。

ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
J.S.バッハ:アリア~管弦楽組曲第3番
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団(1989.10.8Live)

このコンサートの前プロであった「田園」交響曲についても、終楽章コーダのまるで憑依にあったかのような巫女的祈りのゾクゾク感を味わったことは以前にも書いた。第5交響曲についても独特の節回しとテンポ感が随所に活き、聴衆の熱狂的な拍手が当日の演奏の類稀さを象徴しているようで、ともかくその夜、現場にいなかった自分自身を相当悔やんだ。第5番の最後の和音が鳴り響くとき、ティンパニの一撃の一瞬のずれがこれまた妙に意味深く、そういう瑕もまた人間業を超えた何ものかが働きかけているように感じられる。

天心は渡欧の際、こんな経験をしたのだろうか・・・。
時1886年~87年のこと。ということはブラームスやブルックナーも存命だったということで、ひょっとすると彼の地でハンス・リヒターの指揮によって聴いたのかもしれないし、あるいはハンス・フォン・ビューロー&ベルリン・フィルで聴いたのかもしれないとあれこれ想像する、それだけで今夜は素敵な気分(笑)。

ちなみに、アンコールにはバッハの「アリア」が演奏されているが、実にこのアンコールこそが当夜の白眉と言ってもいいくらいに(Youtubeでカラヤンのものと比較試聴してみるとそのすごさが理解できる)、まるで来るべき自身の死を予感するかのようなレクイエム的演奏で、CDには演奏後の拍手が収録されていないので聴衆の反応はまったくわからないのだが、会場にいるすべての人々が金縛りにあってしばらく身動きできなかったのではないかと思えるほど。とにもかくにも緊張感と静寂を漂わせる一世一代のただならぬパフォーマンス!!


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