アバド指揮ベルリン・フィルのノーノ「断ち切られた歌」(1992.12Live)ほかを聴いて思ふ

nono_mahler_abbado_bpo409戦争の時代であった20世紀は、断絶の時代でもあった。
人と人とのつながりが物理的に途切れるだけでなく、時の経過とともに精神的なそれも失われていった。
人間である以上、ぶつかりや喧嘩、争いは避けられまい。しかし、双方に心があり、言葉があるならば互いに意思疎通を図りながらよりを戻していくことは容易いはず。
ただし、それには許す心が必要だ。

1992年、壁崩壊後のベルリンのフィルハーモニーで鳴らされたルイジ・ノーノの「断ち切られた歌」。1956年に作曲された、ファシズムの犠牲になったレジスタンスの若者の、死の直前に書かれたテキストに曲が付されたこの作品は終始悲しみに溢れ、時に断末魔の叫びの如くの金管の咆哮に満ちる。聴いていて背筋が凍り、胸が締め付けられるほどの阿鼻叫喚。
時代に警告を鳴らすために書かれたこの手の作品は、おそらく音化されるたびに根底に流れる怨恨が増幅され、人々の魂を癒すどころか、逆に負の感情を一層際立たせるのかも。
恐ろしいことだ。

クラウディオ・アバドのプログラミングの妙。
自身は君臨する帝王ではなく、あくまで共同作業者であるという意識。彼の本番における神がかり的パフォーマンスはオーケストラの団員からも圧倒的支持と信頼を得たという。

アバドは「マエストロ」とは呼ばれたがらない。最初のリハーサルのとき、彼はオーケストラに向かってこう言った。「ただ、クラウディオです」、「私は皆さんのクラウディオで、タイトルはいりません。私は他のどのオーケストラとも同じように、ここでも仕事をしたいと思っています」。いまだに、楽団員はみな、彼のことをクラウディオと呼んでいる。
ヘルベルト・ハフナー著/前原和子訳「ベルリン・フィル―あるオーケストラの自伝」(春秋社)P354

音楽の根底に流れる温かさはアバドの性質そのもの。

・ノーノ:断ち切られた歌
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ズザンネ・オットー(メゾソプラノ)
マレク・トルツェフスキ(テノール)
ベルリン放送合唱団
スザンヌ・ローター(語り)
ブルーノ・ガンツ(語り)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.12Live)
・マーラー:「亡き児をしのぶ歌」
・マーラー:「リュッケルトによる5つの詩」~第3曲「私はこの世に忘れられ」
マリアナ・リポヴシェク(メゾソプラノ)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.9録音)

アバドは歴史の一コマを極めて上手に切り取り、聴衆の前に見事に提示する。
コンサートの冒頭と中間に置かれた朗読は、1942年7月22日、ソフィア、中央収容所収容者の手紙の抜粋。すべてが痛ましく、生きる希望と親族への愛に溢れる。

カップリングはリポヴシェクを独唱に迎えたマーラーの「亡き児をしのぶ歌」と「私はこの世に忘れられ」。何と透明で美しく、慈しみに溢れる歌であることか!
ここでは、死の影、不穏な様相を突き抜け、完全に浄化された世界が繰り広げられる。

第9交響曲が木霊する第1曲「今、まさに太陽が燦々と昇ろうとしている」の清澄な響き。また、第4曲「よく私は子どもらはただ散歩に出かけただけだと考える」の絶唱にみる哀しみ。
そして、リュッケルト歌曲集から第3曲「私はこの世に忘れられ」における管弦楽の深みのある響きに感服し、途中の独奏ヴァイオリンに涙する。

過去の作品と現代の作品を、一緒に紹介したいのです。この2つが、文学的あるいは歴史的に同じテーマをもつものなら、より簡単に結びつけることができます。(・・・)実際に、ベルリン・フィルは、ますます市の文化活動の中心へと成長を遂げてきました。ベルリンの人々は、老いも若きも、計画を立て、手間をかけて作り上げる意欲や能力をもっていることを感じます。
~同上書P372

アバドの思考は実に革新的であり、バランスに富む。しかし残念ながら彼の思惑はその通りにならず、決して長続きはしなかった。

聴衆の大部分は、アバドのテーマ作りを、少し教育的すぎるし、複雑すぎる、あまりに広大な歴史に入り込みすぎる、現代音楽にも手を広げすぎる・・・と感じた。しかも、伝統的なジルベスター・コンサートにまでテーマを設けても、客は十分に入らない。
~同上書P375

理想と現実のギャップ。
所詮音楽も(悲しいかな)売れねばならぬものなのである。

 

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2 COMMENTS

雅之

アバドで私が不満だったのは、彼がショスタコーヴィチにほとんど食指を動かさなかったこともありました。ノーノに熱意を示すんだったら、組合せはマーラーよりショスタコがいいと私は思いましたがね。

そして本命、ノーノの演奏は、アバドのよりケーゲル指揮の音盤に真実味があり感銘を覚えた記憶があります。

今じゃ、全くどうでもいいことですけれど・・・。

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岡本 浩和

>雅之様

>ショスタコーヴィチにほとんど食指を動かさなかったこと

同感です。ほんとにこれは七不思議ですよね。

>今じゃ、全くどうでもいいことですけれど・・・。

音盤を大量に処分され、意識がそうなってもこれまで培われた膨大な知識、知見は大いなる宝だと思います。
その恩恵にあずかれることに感謝します。

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