1778年の「パリ」交響曲。
溌剌と勢いのある第1楽章アレグロ・アッサイ。後の「ジュピター」交響曲に優るとも劣らぬ堂々たる音調は、当時のモーツァルトの絶好調を示すよう。
ぼくはコンセール・スピリチュエル開幕用の交響曲を作曲しなければなりませんでした。それは聖体祭の日に演奏されて、大喝采を博しました。ぼくの聞くかぎりでは、「ヨーロッパ通信」にもその事が報道されたそうです-つまり大好評だったのです。
(1778年7月3日付、レオポルト宛手紙)
そして、第2楽章アンダンテの典雅で愁いを帯びた響きに心動き、第3楽章アレグロのいかにもモーツァルトらしい歓びの表現に納得。何よりモーツァルトが自信を持っていたというアンダンテ楽章第1稿も併せて収録されているところが素晴らしい。
アンダンテは、残念なことに彼(ル・グロ)の気に入りませんでした。彼は、転調が多すぎ、しかも長すぎるといっています。それというのも、聴衆が第1楽章やフィナーレの時のような鳴りやまない大拍手をすっかり忘れてしまったからです。なぜならば、アンダンテはぼくにとっても、識者や愛好家や大抵の聴衆にとっても最高のものだったのですから。
(同年7月9日付、レオポルト宛手紙)
クラウディオ・アバドの挑戦はとても意味深く、そして意義深かった。
何より意外な組み合わせが光り、ほとんど顧みられることのない作品(現代のものも含め)にも目を向けたプログラミングの妙。
前任者の威光はあまりに凄過ぎた。
それゆえに、彼の演奏は単に外面だけを磨き上げるのでなく、内容も相当に練り込まれた歌に溢れる演奏だった。それは、ヘルベルト・フォン・カラヤンとは別の意味で洗練された、現代的な装いであったといえる。
ベルリン・フィルとの最初のシーズン、すなわち1990/91年のプログラムの「まえがき」で、アバドは次のように書いたそうだ。
この大きな歴史的転換期に、ベルリン市は新しい観点から、再び東西文化の中心になる機会を得ました。我々全員が、ベルリンをあらゆる文化の発展に積極的である街にするよう、努力します。そのすべてが、ベルリン・フィルのプログラムの構成に反映されるでしょう。
~ヘルベルト・ハフナー著/前原和子訳「ベルリン・フィル―あるオーケストラの自伝」(春秋社)P349
「あらゆる文化の発展」という点がミソ。果たして彼のこの言葉通り、コンサートにおいても音盤においても古今の様々な作品が採り上げられた。
モーツァルト:
・交響曲第31番ニ長調K.297(300a)「パリ」
・交響曲第31番ニ長調K.297(300a)「パリ」第2楽章アンダンテ(第1稿)
・フリーメイスンのための葬送音楽ハ短調K.477(479a)
・交響曲第25番ト短調K.183(173dB)
・交響曲ニ長調「ポストホルン」K.320より
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.3&11録音)
1785年の「葬送音楽」。
アバドが演奏すると、弔いのための音楽とは思えぬ愉悦がこぼれる。特に、フリーメイスン加入後のモーツァルトにとって死とは悲しむべきものでなく、むしろ祝福すべきものであったのだと言わんばかり。
あるいは、1773年の「小ト短調」交響曲。
もっと鬼気迫る第1楽章アレグロ・コン・ブリオが好みなのだけれど、もっと情感豊かな第2楽章アンダンテが趣味なのだけれど、そしてもっと踊りたくなる第3楽章メヌエットが欲しいのだけれど、何とも冷たくメカニックな響きのモーツァルトも時にはよかろう。
あまりに機能性に優れたベルリン・フィルのアンサンブルに舌を巻きつつももう少し温かみがあったらなどという、ないものねだり。
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アバドとカラヤンの違い。
アバドはシベリウスをついにやらんかったですね、一方ではプッチーニも・・・。
それは、些細な差かも知れないですけど、二人はそれぞれ異なる景色に興味を持っていたんだと改めて思います。
>雅之様
確かにアバドがシベリウスやプッチーニをやらなかったのは不思議ですね。
色恋沙汰の多かったアバドにとって、プッチーニの人となりは自分の映す鏡のようで無意識に拒否反応があったのかもですね。
シベリウスについてはあまりに内省的な力が肌に合わなかったとか・・・?
どうしてなのでしょう??