ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルの「ザルツブルク音楽祭2012」オープニングコンサートを観て思ふ

gergiev_salzburg_festival_20124611937年のプロコフィエフの手帳には次のようにある。

音楽がごくわずかの審美眼のある人のためだけに書かれた時代は過ぎた。民衆は巨大な数の大衆が真面目な音楽に面と向かい、痺れを切らして熱心に待っている。作曲家よ、ここに注意。このような大衆をはねつけると、彼らは君に背を向け、ジャズや品のない音楽に向かうだろう。しかし、もし君が彼らを引き留めることができたら、君は世界がかつて見たこともないような聴衆を勝ち取ることができるであろう。
田代薫訳「プロコフィエフ自伝/随想集」(音楽之友社)P173

プロコフィエフは多少の偏見をもち、どちらかというと狭い了見の人だったのかも。彼が時代のニーズをしっかりと読みとっていたことは確かだが、どうやらいわゆるポピュラー音楽というものを誤解していたように思えてならない。プロコフィエフの音楽がほぼ同時代のショスタコーヴィチなどと比較して(内容的に)幾分小ぶりで、いまひとつ人気に欠ける(?)のは、四角四面の思考が邪魔をしていたせいなのかも・・・。

ワレリー・ゲルギエフの音楽はツボにはまったとき、途轍もない感動を与えてくれる。
ザルツブルク音楽祭でのプロコフィエフの交響曲第5番を聴いて、有名ではあるもののどちらかというと(少なくとも僕にとっては)内向性を感じるこの作品が、見事に外に向かって光輝を放ち、しかもどの瞬間においても有機的な響きを失わないことに感動した。
ゲルギエフはともかく打楽器の使い方が巧い。どんなに轟音を要求しようと音が意味を失わないのである。

第1楽章アンダンテの雄渾に惹かれる。旋律の美しさにも。
また、第2楽章アレグロ・マルカートはショスタコーヴィチのスケルツォを想像させる。何という諧謔と愉悦。あるいは、第3楽章アダージョの清廉で透明な抒情。ここは濃厚な味付けで歌い切るゲルギエフの真骨頂。そして、終楽章アレグロ・ジョコーソにはどこかブルックナーの宇宙の鳴動にも似た開放があれど、不思議な抑圧を感じるところがプロコフィエフらしい。

わたしの第5交響曲は自由で幸せな人間、その強大な力、その純粋で高貴な魂への賛美歌の意味を持っている。わたしは意識してこのテーマを選んだとは言えない。それはわたしの中に生まれ、表現されることを強く要求していたのである。音楽はわたしの中で熟し、わたしの精神を満たした。これがユタのだれかを不愉快にさせる音楽―いや、もしかしたら着想―なのだ。疑いなく彼らは人間の品性を落とし、認識を鈍くするような、そして洗練された感情をゆがめるような音楽を好むのであろう。
~同上書P223-225

プロコフィエフのある意味弱点は、作品をあくまで自分のために書いたことなのかも。おそらく創造行為に聴衆は不在であったのでは?(僕の勝手な憶測だけれど)

ザルツブルク音楽祭2012~オープニング・コンサート
・ストラヴィンスキー:詩篇交響曲
・ムソルグスキー(ラスカトフ編):歌曲集「死の歌と踊り」
―子守歌
―セレナード
―トレパーク
―司令官
・プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調作品100
セルゲイ・セミシュクール(テノール)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)(2012.7.29Live)

このコンサートの白眉はセミシュクールを独唱に迎えたムソルグスキーの傑作「死の歌と踊り」。終始不気味な音調が支配するこの歌曲集を丁寧に、そして命を賭けて歌う様。
壮絶な第1曲「子守歌」。
そして、冒頭、「ボリス・ゴドゥノフ」を髣髴とさせる性急な前奏が素晴らしい第3曲「トレパーク」。また、セミシュクールの熱唱が哀しく切ない第4曲「司令官」。

ところで、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」は、ゲルギエフらしく情動的な演奏だ。
一定のパルスに支配されつつ、管弦楽は見事にうねり、合唱は大きな呼吸で全体を包み込む。名演奏だが、正直、この作品を僕は決して面白いとは思わない。

なるほど、オリヴィエ・メシアンの言葉に膝を打った。

そうだ、だが彼はヴェーベルンでもシェーンベルクでもない。彼はストラヴィンスキーであり、自分が始めたことを続けていれば、もっと良い結果が得られただろう―すなわち、ロシア人としてロシアの流儀で作曲していれば。なぜなら彼の死後、今では「ペトリューシカ」や「春の祭典」は演奏されるものの、新古典主義の作品はもはや演奏されない。音列技法を用いた「トレニ」も、バッハの真似もそうだ。誰もが本物のバッハを演奏したいのだ。彼は批評家と歩みを共にしようとし、驚かせることをやりたかった。残念なことだ。愛想が良く、自らの天才を無益なことに浪費してしまったのだから。
アルムート・レスラー著/吉田幸弘訳「メシアン―創造のクレド 信仰・希望・愛」(春秋社)P133

辛辣だが、この意見は概ね正しい。

 

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2 COMMENTS

雅之

さっそく読了しましたよ。岸見一郎 古賀史健 著 『幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII』(ダイヤモンド社)

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いや~、前作よりさらに厳しく、人生の示唆に富みまくってますねぇ、実践していくのは大変ですが(笑)。

・・・・・・ かねてよりアドラーは、誤解されやすい思想家でした。
 特にその「勇気づけ」というアプローチは、子育てや学校教育、また企業などの人材育成の現場において、「他者を支配し、操作する」というアドラーの本意からもっともかけ離れた意図を持って紹介され、悪用ともいえる扱われ方をされる事例が後を絶ちませんでした。
 もしかするとこれは、アドラーが他の心理学者に比べて「教育」に熱心だったことと関係しているのかもしれません。学生時代、社会主義に強い関心を抱いていたアドラーは、第一次世界大戦後にロシア革命の現実を知り、マルクス主義に失望します。そして政治改革ではない、教育改革による人類の救済を志向するようになりました。 ・・・・・・岸見一郎 あとがき (P291) より

そういえば、過去にこんなCDを持っていました。

プロコフィエフ「ピーターと狼」 ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」 デヴィッド・ボウイ (ナレーション) ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団

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語りがデヴィッド・ボウイだったからこそ、「縦の関係」ではなく、「横の関係」を信じて楽しく聴いていたんだと思います。

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岡本 浩和

>雅之様

ちょうど僕も本日購入し読み始めたところでした。いつもながら奇遇です。
まだほんの少しですが、示唆に富みますね。楽しみに読み進めます。

>語りがデヴィッド・ボウイだったからこそ、「縦の関係」ではなく、「横の関係」を信じて楽しく聴いていたんだと思います。

こんなのがあったんですね!確かにボウイであるがゆえの「ピーターと狼」なのでしょう。
ありがとうございます。

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