レナード・バーンスタインが晩年に聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団を指揮して録音したドビュッシーについては、初めて聴いたとき、そのあまりの粘っこさと濃厚さに辟易したものだが、今聴いてみると相応の説得力をもっていたことがよくわかり、実に興味深い。
浮雲のようなドビュッシーの音楽にも不屈のエネルギーと闘志が必要なのである。
彼のような人物には会ったことがない。ひっきりなしに次の台本、次の企画、次の曲と取り組んでいく。客演指揮をしにやってきたときは、問題解決の糸口を与えてくれる。公演にはいつも何かしら障害がつきものなのだ。するとレニーが口をはさむ。「私はすばらしい演奏をするためにやってきたのだ」と言い、実際そのとおりになる。契約上のいざこざは片がつき、人の和ができあがる。誰もが音楽に専念し、本来の姿に戻るのだ。
~ジョーン・パイザー著/鈴木主税訳「レナード・バーンスタイン」(文藝春秋)P452
マイケル・ティルソン・トーマスの、バーンスタインを評しての言葉が的を射る。
当時のバーンスタインがいかに気力に溢れていて、しかもどんなオーケストラをも統率できる能力に長け、八面六臂の活躍を魅せていたかがよく理解できる。
「牧神の午後への前奏曲」が歌う。いかにも独墺浪漫派風のスタイルで、不健康さの微塵も感じられない演奏だが、これほど「濃い」とやっぱりこの作品が19世紀末のもので、作曲者の愛や恋にまつわる心情が確実に吐露されていることが手にとるように見える。
ドビュッシー:
・管弦楽のための映像
・牧神の午後への前奏曲
・交響詩「海」~3つの交響的素描
レナード・バーンスタイン指揮聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団(1989.6Live)
一層素晴らしいのは「海」。
水そのものと時間の移ろいをこれほど見事に音で表現したこと自体ドビュッシーの天才だが、少なくともその「移ろい」を聴く者に感知させてくれるのはバーンスタインのスタイルあってこそのもの。第1楽章「海上の夜明けから正午まで」においてゆったりと流れる「時」の癒し。ここには午前の恍惚がある。
また、第2楽章「波の戯れ」での波の振幅のリアルさに(波は人間の呼吸と同期するのである)感銘。そして、白眉は第3楽章「風と海との対話」。冒頭の、低音による暗澹たる雰囲気、そこに現れる弱音器付のトランペットによる旋律の哀しげな巧さ。
風が吹き、海は荒れ、そしてまた凪ぎ、都度音楽は終始踊り、また止み、進行してゆく。
後半部の、静けさから開放され、魂がより高みへと誘われるような音楽は、「母なる海」を表わす如く。バーンスタインのこのテンポに必然性を思う。
しかし文明の居心地よさはつねに、大自然との直接の接触を遮断する。たとえば灼熱の紅海では、先帝は40度を超え、甲板でも燃える暑さだ。もちろん一、二等船室は優雅に冷房されているが、それでは、コンラッドの描くこの熱帯の海という荒々しい野獣のようなものの実体に触れることはできない。限りなく強烈な、素肌ならすぐに火傷を起こす太陽の下でしか、紅海の目くるめく壮大さは味わえないのである。・・・(中略)・・・
あれからもう30年。いまも海が恋しいとき、なつかしい三好達治の詩を読む。
「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」(フランス語の母は、mére、海はmer)
(海の中に母がいる)
~辻邦生著「生きて愛するために」(メタローグ)P36-37
辻邦生の引用する三好達治の詩に心打たれる。
バーンスタインの演奏には同じく「母」がある。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。