アレーナ・ディ・ヴェローナ2004歌劇「蝶々夫人」を観て思ふ

puccini_madama_butterfly_verona_2004日本という国を見たこともないのに当時の駐イタリア公使夫人の話に興味を抱き、結果的に世界的傑作となるオペラを生み出すジャコモ・プッチーニの才能、そして先見の明というのはたいしたもの。しかし、さすがに演出含め、何より外国人が着物を着て日本人に成りすます姿にどうにも違和感が拭えないのも確か。
100余年の間世界中のオペラ・ハウスを席巻し、現在も人気が高いレパートリーとなっているのは何と言っても彼の音楽の力に依るところが大きいだろう。そして、幕末の日本人の気風や習わしを見事に表現したそのストーリーも、初演当時の西洋にあっては不思議な感覚しか与えなかったのだろうが、表現が多少大袈裟であったとしても、蝶々さんの内には、例えば新渡戸稲造の「武士道」などにみる、生き様、生き方のヒントが刷り込まれているようで、その潔さとある意味勇気に惚れ惚れする。

人間の持つ「常識」、あるいは「感覚」というのは真に面白い。例えば、ロシアの大地に足を踏み入れたことがないのにムソルグスキーやラフマニノフの音楽に「ロシア」を感じ、「ロシア的なるもの」が想像できるのだから。
本当は「国境」など存在しないということだ。それこそ人間が拵えた「幻想」だ。そして、その「幻想」だか他愛もない人間の「空想」を超えるのが音楽ではないのか・・・。
ひたすら眼を閉じて「蝶々夫人」の音にだけ耳を傾け、そんなことを考えた。

束の間の愛情を求めたアメリカ人に対して、それを真実の愛と信じたうら若き大和撫子という設定に現代の米日の関係を見る・・・。
どんな舞台だろうと蝶々さんが自刃して果てる終幕はことのほか美しい。

プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」
フィオレンツァ・チェドリンス(ソプラノ、蝶々さん)
フランチェスカ・フランチ(メゾ・ソプラノ、スズキ)
ミナ・ブルム(メゾ・ソプラノ、ケイト・ピンカートン)
マルチェッロ・ジョルダーニ(テノール、ピンカートン)
フアン・ポンス(バリトン、シャープレス)
カルロ・ボージ(テノール、ゴロー)
アレッサンドロ・バッティアート(バリトン、ヤマドリ公爵)、ほか
ダニエル・オーレン指揮アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団&合唱団(2004.7.10Live)
フランコ・ゼッフィレッリ(演出&装置)

ヒロインの大役を務めるチェドリンスの巧さが際立つ。
蝶々さんの子役の演技は正直下手くそだが(笑)、そこは愛嬌というところか。ピンカートン役のジョルダーニも臆病なところやずる賢いところを見事に表現し切っており、歌唱も素晴らしい。

ところで、ゼッフィレッリの本演出における極めつけのひとつは終盤に「死霊」が登場するところ。何とも不気味でありながら、「蝶々夫人」があくまで悲劇であり、不吉な物語であることを象徴する。それによって、そもそも蝶々さんの死は予め決められていた「運命」なのだと僕たちに教えてくれるのだ。
ちなみに、第1幕では蝶々さんは15歳という設定。しかし、舞台で演じるチェドリンスは残念ながら15歳には見えない・・・。こういうところがオペラの難しさだろう。
ならば、やっぱりステージや演出は聴く者の想像に任せ、音楽のみを堪能するという手・・・。

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

これはミラノ初演版、ブレーシャ上演版、パリ上演版の3種があります。ブレーシャ版の方がプッチーニが意図したものです。パリ版はヨーロッパの聴衆向きに改訂したとはいえ、こちらの方はプッチーニが意図したものとはいえません。ともあれ、この版を用いて上演することがほとんどです。
二期会はミラノ版で上演したことがありますし、ブレーシャ版上演はダニエラ・デッシーが蝶々さん、ファビオ・アルミリアートがピンカートンでした。デッシー、アルミリアートは藤原歌劇団でのチレア「フドリアーナ・ルクヴルール」での来日予定があったものの、残念なことに取りやめになってしまいました。

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