ジュリーニ指揮バイエルン放送響のバッハ「ロ短調ミサ曲」(1994.6.2Live)を聴いて思ふ

bach_mass_b_minor_giulini509祈りの「ロ短調ミサ曲」。
これほど深い情念に包まれ、慈悲に満ちるバッハはない。
テンポ遅く粘りを加味すると、浪漫的に過ぎる解釈になりがちだが、その一方で清澄で流れの良さを体感できる演奏はそうそうない。
身近な人の死に直面し、人は哀しみに打ちひしがれながらも、魂の永遠を願う。
世界は激動で、一寸先は闇であり、また一寸先は光明差す希望でもある。
とはいえ、闇も光も現実であり、双方が支え合ってこそ存在するもの。
悲しんでばかりはいられない。
今に生きる僕たちが、各々どう在るかが問われているのだと思う。

私はレナード・バーンスタインの死をスカラ座で、バッハの「ロ短調ミサ」の練習を始めようとしていたところで知らされた。それは、たとえ私がこの偉大なマエストロと、とくに親しく個人的な付き合いがなかった―じじつ私はバーンスタインとは、僅か2,3度言葉を交わしただけ、それも何か特別な問題について深く論じあったわけでもなかった―としても、まったく悲しい報せだった。本当に人に苦痛を与えるたぐいの悲しみだったのである。
付き合いはなかったが、私のバーンスタインに対する賛嘆の念は常に変わることなく、たいへん大きなものであった。私を魅了して止まなかったのは、その音楽に接する際に示す確信、技術的な問題の天才的な解決、その演奏から滲み出てくる(音楽的なのはもちろん)人間的とさえいえる高貴な豊かさであり、それらは常に正真正銘の悲愁に彩られ、また幻想溢るるものであった。
(カルロ・マリア・ジュリーニ)
バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P17-18

ジュリーニのこの言葉を知ると、「ロ短調ミサ曲」の持つすべてを鎮める力の大らかさを思わずにいられない。ここにはバッハの天才があり、それを見事に再生する指揮者の愛がある。

・J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調BWV232
ルート・ツィーザク(ソプラノ)
ロバータ・アレクザンダー(ソプラノ)
ヤルド・ファン・ネス(アルト)
キース・ルイス(テノール)
デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(バリトン)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮バイエルン放送交響楽団&合唱団(1994.6.2Live)

「キリエ」冒頭から濃厚な色合いはジュリーニならでは。それでいてもたれない精神性は随一かも。
また、「グローリア」第6曲「ラウダムス・テ」ソプラノ独唱の厳粛さ。伴奏の独奏ヴァイオリンの可憐な響きに感涙。何という優しさなのだろう。続く第7曲合唱「グラツィアス・アジムス・ティビ」の崇高な調べ。ここには喜びがある。さらには、「クレド」第16曲合唱「エト・インカルナトゥス・エスト」が示す精妙な神秘に心動き、第17曲「クルチフィクスス」におけるイエスの受難の深い哀しみの表現にジュリーニならではの慈しみを思う。
この「クレド」は真に素晴らしい。

そして、開放的な「サンクトゥス」に生の歓びを発見し、最後の合唱フーガのあまりの美しさ、荘厳さにバッハの天才を知る。
「オサンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイとドナ・ノービス・パーチェム」の華麗な音楽に痺れる。ここでのジュリーニの解釈はやっぱり深沈として重い。
ちなみに、第24曲のアリア「ベネディクトゥス」のフルート伴奏の得も言われぬ恍惚の響き。また、第26曲アリア「アニュス・デイ」の迫る哀しみ。

人間の感情を超え、世界とひとつになる時に思う表現し難い感覚。
それこそぶつかりのないZEROの表象だと僕は思うが、終曲合唱「ドナ・ノービス・パーチェム」の澄んだ音楽はバッハの名作の中でも最高傑作の一つに挙げられよう。トランペットの輝かしく伸びる響きは筆舌に尽くし難い。

 

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