ファン・ズヴィーテン・ソサエティのベートーヴェン交響曲第3番&第5番(2014.3録音)を聴いて思ふ

beethoven_3_5_van_swieten_society522当時の人々は、サロンでこうやってベートーヴェンの音楽を堪能したのだ。
しかし、正直さほど面白いものではない。
この編曲が現代においてどれほどの価値があるのか?
僕の印象だと、今となっては観賞用というより演奏者の個人的な愉しみのためにあるといって良いのではないか。

ベートーヴェンの器楽もまたそのように、途方もなく大きい。測りがたいものの王国を開いてみせてくれる。白熱の光線が束になってその王国の深い夜にさしこむ。するとわれわれは、巨大な存在の影を認めることになるが、その影は上に下におおきく波のようにあらわれ、じわじわとわれわれを包み、われわれの内部にひそむすべてのものを、ただひとつ無限の憧れの苦しみをのぞいて、無に化してしまうが、この無限の憧れにまぎれて、ありとあらゆる愉悦が歓呼をあげる音となってたちまち上昇してきたかとおもうまに沈み没し去る。そして、愛、希望、歓喜を呑みつくしはするものの破壊するまでにはいたらずに、いっさいの情熱の全声部こぞる協和音でわれわれの胸を破裂させんとするこの苦しみのうちにあってこそ、われわれは生きつづけているのであり、エクスタシーに達した霊視者として存在しているのである。
(E.T.A.ホフマン「ベートーヴェン 第5交響曲」)
~「音楽の手帖ベートーヴェン」(青土社)P244-255

E.T.A.ホフマンのいう「途方もない王国」を髣髴とさせる作品が、極めて小さな、僕たちにあまりに簡単に手の届くものに矮小化されている。一言でいうと、光と翳の対比が薄まってしまっているのである。
ただし、ベートーヴェン自身と密接なつながりのあったフンメルやリースのアレンジであるということは確かに興味深い。彼らが一体どのようにベートーヴェンの作品を料理しているのかと。

当時のウィーンの街の人気をベートーヴェンと分け合ったヨハン・ネポムク・フンメル。
いわばピアニストとしてライヴァルの関係にあった彼が(むしろベートーヴェンより人気が高かったともいわれる)盟友の作品を世に広めるべく編曲したハ短調交響曲は、ピアノを中心としたアンサンブル曲として生まれ変わり、実に軽快に、そしてまた楽天的に僕たちの目の前に姿を現す。

ベートーヴェン:サロン・シンフォニーズ
・交響曲第5番ハ短調作品67(ヨハン・ネポムク・フンメル編曲)
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(フェルディナント・リース編曲)
ファン・ズヴィーテン・ソサエティ
バルト・ファン・オールト(フォルテピアノ)
マリオン・モーネン(フルート)
ベルナデット・フェルハーヘン(ヴィオラ)
ヨブ・テル・ハール(チェロ)
ヘレーン・フルスト(ヴァイオリン)(2014.3.4-7録音)

一方、ベートーヴェンの愛弟子の一人であるフェルディナント・リースがピアノ四重奏のために編曲した「英雄」交響曲は真に興味深い。
ナポレオンが皇帝に即位したことに、ベートーヴェンが激怒し献呈を取りやめたという逸話はリースから出たものだということ、そしてまた「英雄」交響曲の最初のリハーサルの場に彼が居合わせていたことなど、リースこそベートーヴェンの信頼を一手に引き受けていた輩であり、となればこれはベートーヴェンの意を酌む、彼のお墨付きの作だとも考えられる。
ちなみに、第1楽章コーダのトランペットのファンファーレを、音色を変えずに2度ともヴァイオリンが受け持っているところは見逃せない(ここは原典では2度目は木管に引き継がれるパートで、その中途半端なオーケストレーションに後世の音楽家たちが悩まされたところゆえ)。やはりベートーヴェンはあのファンファーレはずっとトランペットで通したかったと内心は考えていたということか?
第2楽章葬送行進曲も荘厳かつ静謐な響きを醸していて見事。

 

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