第2章:再生

鬱蒼と樹々の茂る森に一条の光が差し、得もいわれぬ不思議なエネルギーを感じる夢を見た。否、それは夢ではなく、起きがけの瞑想中に見たいわば白昼夢に似た幻覚だったのかもしれない。
世の中の全てのものは儚い。「人」の「夢」と書いて「儚」だ。あらゆるものが意思とは別のところで、そして時とともに一瞬にして泡沫と化す。
「過去」にとらわれることなかれ。とどのつまり、人は誰も何事も「所有」することはできない。物を持ち、とらわれればとらわれるほど「重荷」になり、挙句の果て「執着」となってゆく。
ただ「今」を生きること、そして後ろを振り返らずに前に進むこと。 

555 日分のブログのデータベースが吹っ飛んだ。以前の自分なら捨てきれない「拘り」に悶々として、居ても立ってもいられない状態に陥ったことだろう。大袈裟に言えば、自らが生み出した可愛い、可愛い「子ども」のようなものだったのだから。とはいえ、過去は過去。思い出に耽って安穏としている暇はない。
いずれにせよ、再起の意を込めて、そして新たな「第2章」のスタートという気持ちでサイトをリニューアルする。今日、2008年12月9日(火)は「再生」の日とすることにしよう。

「再起」ということで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でもとりあげようかと思ったが、それだとあまりにも能がない。鬱蒼たる森に差す一条の光から何を思い浮かべたかというと、人類至宝のバッハの音楽。

J.S.バッハ:マタイ受難曲BWV244
エルンスト・ヘフリガー(エヴァンゲリスト、アリア:テノール)
キート・エンゲン(イエス:バス)
イルムガルト・ゼーフリート(アリア:ソプラノ)
ヘルタ・テッパー(第2の女、アリア:アルト)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(アリア:バス)
カール・リヒター指揮ミュンヘン少年合唱団、ミュンヘン・バッハ合唱団、ミュンヘン・バッハ管弦楽団
ほか

この3時間超に及ぶ音楽をどうのこうのと批評し、言及する言葉は持ち合わせていない。既に50年を経過したこのリヒターの最初の「マタイ」こそ、人々が最悪の状況に直面したときに救いとなるであろう、ある意味唯一無二の「絶対的」音楽であり、思想であり、演奏である。


7 COMMENTS

雅之

こんばんは。
初コメントします(笑)。
第1章がブラームスのEin deutsches Requiemで終わり、第2章のバッハのMatthäus-Passionで復活する、素晴らしい!(カッコ良すぎる!笑)
Passionの意味は「受難」もありますが、前向きな「情熱」、「熱情」でもありますよね。
人間力向上について、音楽について、よりパワーアップして「情熱」、「熱情」いっぱいに語る、新しいおかちゃんのブログ、期待しています!

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。初コメントありがとうございます(苦笑)。
>第1章がブラームスのEin deutsches Requiemで終わり、第2章のバッハのMatthäus-Passionで復活する、素晴らしい!(カッコ良すぎる!笑)
どういうわけかそういうことになってしまいました。我ながら見事です。余計なものを削ぎ取ったような爽快感みたいなものが実はあるんですよね。不思議なことに・・・。
今後ともよろしくお願いいたします。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » 1959年10月新譜シルヴェストリの「悲愴」

[…] ちなみに、新譜推薦盤にはカラヤンがウィーン・フィルと録音したかの有名な「ツァラトゥストラ」やカール・リヒターの最初の「マタイ」、あるいはベームのこれまたモノラルの方の「コジ」などが挙げられている。何と古き良き時代。そして、「悲愴」4組のうちのひとつがシルヴェストリ&フィルハーモニア管によるもの。先日のボックス・セットから引っ張り出して聴いた。 […]

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