故きを温ねて新しきを知る

しばらくバッハに浸るつもり。
日々聴く音楽はなんとなく気分で決めるのだが、仕事絡みで自ずと決まってしまうことが最近は多い。来週末の講座の課題がJ.S.バッハだということに他ならないが、そうでないにせよまだブログで採り上げていない僕にとって重要なディスクがあるのでこの際そのあたりを集中的に聴いて記事にしてみようかという想い。

久しぶりに聴いたフルトヴェングラーのバッハは本当に素敵だ。とにかくその音楽が頭について離れないのだから。いわゆる19世紀風のロマンティックな解釈というのは人の心を鷲掴みにする。今でこそ随分慣れたが、ピリオド楽器による演奏はどうも軽過ぎてあまり好みでなかった。それは僕のクラシック音楽そのものの入口がフルトヴェングラーやワルターという大指揮者の音楽だったからという理由。若い頃の刷り込みというのは本当に恐ろしいものだ。作曲家にはスタイルというものが存在し、誰のどの解釈は素晴らしいがあれはダメだとか平気で評論家気取りでのたまわっていた時期がだいぶ長かったけれど、ここ数年は「中庸」に音楽を聴くことができるようになった。「水の如く」ではないが、それぞれの芸術家が最高のパフォーマンスとして提示する演奏たちなのだから先入観なく心して聴くべきだと思うのである。あとは好みと感性の問題。(こればかりはどうしようもない)

ということで、講座で視聴していただこうか迷っているリヒターのブランデンブルク協奏曲。2度ほど観たが、迷いが吹っ飛んだ。謹厳実直なバッハ。収録から40年以上が経過するが、「故きを温ねて新しきを知る」とはこのことなり。

J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集BWV1046-1051
オットー・ビュヒナー(ヴァイオリン)
ピエール・ティボー(トランペット)
マンフレート・クレンメント(オーボエ)
ハンス=マルティン・リンデ、ギュンター・ヘラー(リコーダー)
パウル・マイゼン(フルート)
ヘルベルト・ブレンディンガー、インゴ・ジンホーファー(ヴィオラ)
オスヴァルト・ウール、ハンス・ディーター・クルーゼ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
ペーター・シュタイナー(チェロ)
フランツ・オルトナー(コントラバス)
カール・リヒター(指揮&チェンバロ)
ミュンヘン・バッハ管弦楽団(1970.4.1-10収録)

リヒターが亡くなったのは1981年2月。久しぶりの来日を目前にしての急逝だった。
当時僕は高校生。上記のとおりフルトヴェングラーのベートーヴェンやブラームスばかり聴いていた時期だからバッハの音楽についてはほとんど無知。(しかし、それから数年後リヒターの「マタイ」や「ロ短調ミサ」を聴いてバッハに目覚めた)
でも、このニュースに関してはよく覚えている。彼はまだ50代だったはずだからもう少し長生きしてくれていたら巡り巡って僕にも実演を聴く機会があったろうにと思うと、残念でならない。こういう映像を観るにつけ尚更。

ちなみに、バラバラに作曲された6曲を1721年にバッハがまとめ、ブランデンブルク辺境伯に献呈したところから「ブランデンブルク協奏曲」という呼称が使われるようになったのだが、以前この作品にまつわる資料を見ていて、曲順にも計画性があることを知って勉強になった。それは、シャープ系(ト長調、ニ長調)は、Concertoの語源のひとつである「競争する」の原理を追い求めたもので、シャープの数が増えるにしたがって、競い合う度合いが増し、一方のフラット系(ヘ長調、変ロ長調)はもうひとつの語源である「協調する」の原理を追い求めたもので、フラットの数が増えるにしたがって協調・合奏の度合いが増すということ。すなわち、1番(協調)、2番(協調)、3番(競争)、4番(競争)、5番(最大の競争)、6番(最大の協調)ということになり、この順序で演奏することに大いに意味があるのだと。なるほど!バッハは本当に勤勉だ。


6 COMMENTS

みどり

「勤勉なバッハ」を求道者のリヒターが演るのがいいのだと思います。

私にとってリヒターは長く「オルガニスト」でした。
子供の頃は指揮者だと知らなくて…
余計な装飾が入らない極限まで研ぎ澄まされた演奏。

それがこのブランデンブルク、笑みさえ浮かべているよう…
あんなチェンバロを弾きながら!(笑)
貴重な演奏であり映像。素敵な選択だと思います!

リヒターがルターの一節を持ち歩いていたという話も、道を求める
とはどういうことかと胸に迫るものがありますね。

返信する
岡本 浩和

>みどり様

それにしても子どもの頃からリヒターですか!
凄い感性ですね。
そう、このブランデンブルクは余裕綽綽で笑みを浮かべながらというものですね。

講座当日はそれでも最近のアバド盤にしてみようかなと迷いもまだあります。
まぁ、比較という意味で抜粋でそれぞれ観ていただくというのもありですが。

返信する
みどり

感性などという大層なものではなく、王道なので手に取りやすかったに
過ぎません。
それでも、王道には王道たる所以があると思いますけれども。

それにしても、「迷いがあるので」というのはいただけませんね(笑)。
どちらも素晴らしいから紹介するならよしとして、迷って選べないから
「比較」と称して双方をなんて。

自信を持って提示してください。あなたが導くのですから。

返信する
岡本 浩和

>みどり様
おはようございます。
おっしゃる通りですね。
僕は多分にそういういい加減なところがあります。
ブログ上でもこれまでさんざん指摘されてきましたが、お許しください。

>自信を持って提示してください。あなたが導くのですから。

これは良い言葉です!ありがとうございます。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » 色即是空、空即是色

[…] 破壊と創造とが表裏一体だとするなら、闘争と調和もひとつであると考える。 カール・リヒターの「ブランデンブルク協奏曲」について記した時にも書いたが、♯(シャープ)系が競争、♭(フラット)系が調和を表し、バッハがそれらを混在させて考えたことを参考にするなら、ベートーヴェンが頻繁に使った調性、変ホ長調(♯3つ)とハ短調(♭3つ)は一括りにして考えても良いということになる。 しかし、この際、フリーメイスンのことを持ち出すのは止そう(3というのがフリーメイスンを表す重要な数字であることにはとりあえず言及しておくけれど)。とはいえ、晩年、インド思想に嵌ったといわれるベートーヴェンの思想が、例えば「傑作の森」後期あたりの作品群に如実に表れていそうであることを知るにつけ、この人はやっぱり「悟り」を得ていたという結論に達さざるを得ない。あくまで僕個人の感想としてだが。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む