イーヴォ・ポゴレリッチははじめから天才だった。
ショパン国際コンクールでの、物議を醸した騒動があろうとなかろうと、またどんな形であろうと、いずれは彼は世の中を席巻することになっていたことと思う。もちろん、とても聴衆に音楽を届けるサービス精神旺盛な状態ではなく、隠遁者のようなピアノを聴かせた時期もあるが、それも彼にとって一つの通過点であったことが今はわかる。
独特のアーティキュレーション、重いリズム、厚い打鍵。
徐に、思念を音に投影させ、足すでもなく引くでもなく、音楽の影を引き摺る。
すべてがイーヴォ・ポゴレリッチならではの孤高の世界を形成する材料なのであろう。
そもそもフレデリック・ショパンの音楽そのものが突然変異的に現われた異種だ。ポゴレリッチの奏でるような、暗澹たる風趣の中にも垣間見える明朗な(?)安寧の表現こそショパンの真髄を衝いた名演奏だといえまいか。
構築性におけるドビュッシーの無能力は否定しがたい。それは彼の用いたいくつかの手法(属九の和音)のせいであると言えよう。だが、もし彼の本性のうちにすでにこの種の無能さが宿っていたのでなければ、かくもやすやすとこれらの手法に身を委ねることはなかったであろう。この点において、シュトラウスのほうがはるかに確固としていた。しかしながらドビュッシーは—シュトラウスに比較して—強靭さにおいて欠けるものを心情によって補っている。この両者を兼備したショパンのような天才は他に存在しない。
(1945年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P28
フルトヴェングラーの言葉にはたと膝を打つ。
なるほど、強靭さと心情の掛け算こそがショパンの本質だと彼は言うのだ。その意味で、ポゴレリッチの解釈は見事に的を射ているように思う。
これはもはやショパンではないという人もいるかもしれない。
決してデフォルメではない、あまりに私的な音楽に、マジョルカ島での孤独と闘うような音楽に、ピアニストの、作曲家との同期力とでもいうのか、天才を思う。正直、どの瞬間も沈潜し、暗いといえば暗い。しかし、その翳の中に一条の光が見出せたとき、すべては喜びに変わる。
武満徹は書く。
ショパンの音楽には自発的な音楽性というものが非常にあると思います。ショパンの音楽は、まず第一に即興性に富んでいる。真偽のほどはわかりませんが、ショパンが作曲するときは、記譜する人が側にいて、彼の即興を楽譜にして行ったと云う話があります。まあ、それほどではないかもしれないが、とにかくショパンの音楽にはたいへん即興的な面がある。それが音楽としてよくバランスしている、即興に破綻がない。
~「武満徹著作集5」(新潮社)P256
自発的であり、また即興的であるという面こそがショパンの器であり、その器の大きさがポゴレリッチの解釈を十分に受け止めているように思う。もちろん一時期の彼の実演で聴かれたような行き過ぎは困るが、前奏曲集が録音された頃のポゴレリッチの姿勢、音楽的バランスは実に素晴らしいと思う。
[…] 賛するのは、もう一つ、構築性と心情の両方を兼ね備えている点だという。 […]