マタチッチ指揮ザグレブ・フィルのハイドン「太鼓連打」ほか(1979.10.26Live)を聴いて思ふ

matacic_zagreb_haydn_schubert599先日亡くなられた永六輔さんのベストセラー「大往生」のまえがきには次のようにある。

この本のタイトル「大往生」というのは、死ぬことではない。往生は往って生きることである。西方浄土に往って生まれるのだ。
「成仏」という言葉もある。死ぬのではなくて、仏に成る。

なるほど。
あるいは、本文にはこんなことも。

言うだけなら簡単、そうは簡単に死ねないと思ってはいるが、上手に死ぬ人がいることも確かではある。
歳のとり方も、死に方も、初心者ばかりでベテランはいない。あわてて宗教書や哲学書をひもといても間にあわない・・・、と思っている。ドッコイ、間にあって鮮やかに死んで見せる人もいる。

「死ぬということは、宇宙とひとつになるということ」
永六輔著「大往生」(岩波新書)P67

実に面白い。
ちなみに、永さんには「職人」という書籍もあり、ひもといてみるとこれまた面白い。

その点、職人はまず身体です。
その身体が仕事のために変形している人と、たくさん逢いました。職人の手がそうです。
仕事にあった手に変形している、それを見ていると、職人というのは、職業というよりは、「生き方」なのではないかと思えてきます。
職業は途中でやめることができますが、生き方は途中でやめるというもんじゃありません。
体力が落ちて、現場が務まらなくたって、睨みをきかせることはできます。
職人の世界には、「親方」という言葉が生きています。
いまどき、「親方」という言葉が生きているのは、相撲と職人ぐらいでしょう。
暴力団だって、「親分」から「組長」になっています。
でも、どうして、「団長」じゃないんでしょう(笑)。
永六輔著「職人」(岩波新書)P138

おっしゃるとおり!
少し前まで、音楽家(指揮者)の世界もそういう職人の世界だったのかも。職人が再現する音楽は、まさに「生き方」が反映されていたからより感動を与えてくれたということ。

武骨でありながら誠実な音楽作りは朝比奈隆と双璧。
マタチッチ晩年のザグレブ・フィルとの記録。
ウィーンで活躍したヨーゼフ・ハイドン老練の大交響曲と、同じくウィーンを闊歩した若きシューベルトの交響曲というカップリングが興味深い。

・ハイドン:交響曲第103番変ホ長調Hob.I:103「太鼓連打」
・シューベルト:交響曲第2番変ロ長調D.125
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団(1979.10.26Live)

ハイドンの第103番第1楽章序奏アダージョの深い瞑想(コーダでの再現時の一層の深みに舌を巻く)。そして、主部アレグロ・コン・スピーリトに転じるや堂々たる威容。弾ける第1主題の愉悦。職人マタチッチの不器用でありながら楽天的な「生き方」が映し出される。第2楽章アンダンテ・ピウ・トスト・アレグレットの、冒頭の弦による哀しみを湛えた楽想の素晴らしさ。静けさと雄渾さが巧妙に交替するいかにもハイドンらしい音楽はマタチッチの独壇場。また、第3楽章メヌエットは後のベートーヴェンを髣髴とさせる重み。さらには、終楽章アレグロ・コン・スピーリトの解放された明朗さは、すべてを悟り切ったハイドンの清澄な心の現れ。ひとつひとつを大切にし、積み上げるマタチッチの指揮も申し分なし。

後半のシューベルト。10代からすでに彼の音楽は執拗に歌う。
いつ終わるとも果てしないフレーズが延々と続くことに僕は辟易としてしまうのだが、ここでのマタチッチの確信的な七色変化の解釈に唸る。
なるほど、少年シューベルトが参考にしたのはモーツァルトでもベートーヴェンでもなく、ハイドンだったのだ。
荒々しくも美しいマタチッチの音楽に拍手喝采。

 

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3 COMMENTS

雅之

先日
http://classic.opus-3.net/blog/?p=21079#comments
の続き。

何だかんだ言われても、宇野さんの呪縛から逃れられていませんよね(お互いにね・・・笑)。

小澤征爾についても(齋藤秀雄親方との関係など今回の話題にうってつけなのですが)無関心ですよね。

「好き」の反対語は「嫌い」ではなく「無関心」とはよく言ったものです。

みんな、それぞれいい仕事してるんだけどなあ(笑)。

返信する
雅之

小澤については、自戒の念を込めていますので。

マタチッチが素晴らしいのは当然ですが、宇野さんが否定された別の価値観世界にも、宝の山が無数に存在ことを忘れてはいけないと私なりに感じたもので。

好き嫌いせずに、失敗してもいいから未知の世界に果敢に攻めていきたいものですね、「孤独のグルメ」の主人公のように(笑)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

ご丁寧にフォローまでありがとうございます。
返信が遅くなったのに他意はなく、単純に今日は朝からPCに向かう時間がなかったためです。
雅之さんのコメントに返信しあぐねているような印象を与えたかもしれませんが、さにあらず。(笑)
一応、そのことは冒頭にお伝えさせていただきます。

まさしく今の僕は雅之さんと同じ気持ちです。
本日、4年ぶりに「レコ芸」を買いました。
もちろん宇野さんの追悼記事があったから。
いろいろとお世話になったので、この号はなんやかんやいってはずせないなと。
中身を確認することなくレジに走っておりました。

そこで、宇野さんがおそらく最後に口述されたアーノンクールのベートーヴェンの音盤に関する評が出ておりました。僕もあの演奏は正直好きではありませんし、一聴、?を持ちました。
その?をいかにも宇野流に論じられていて、しかもそれが妙に説得力のある言い回しなので、ひょっとすると経験の浅い人ははまってしまうかもしれません。
しかし、よく読んでみると結局は「好き嫌い」で論じられているのだということがわかります。
というのも、演奏というのはどれもが個性で、正解などないわけですから、その演奏にシンパシーを感じる輩もいればそうでない人もいるというだけの話で。

現在の僕ならばとても客観的に判断することができます。
何事においても良し悪しは誰にも決定できない事実です。決められないこと自体が真理なのだと。

ということで、もうだいぶ前から小澤については同じく自戒の念を込めて丁寧に聴かせていただいております。
ちょうど今は便利な廉価ボックスからEMI録音のサン=サーンス「オルガン付」ほかを聴いているところです。
貴重なご意見をありがとうございます。
あらためて雅之さんには感謝いたします。

PS
小澤さんにもしものことがあるといけないからと、採り上げるのを遠慮していたというのもありますが・・・(笑)

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