ラローチャ&ショルティのモーツァルトK.503&K.595(1977.12録音)を聴いて思ふ

mozart_25_27_concertos_larrocha262こう暑いと音楽を聴く気力も失せるというものだが、そこは気をとりなおして。
そんな夕べにこそヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。使い古された言い方だが、砂漠の中のオアシスの如く身も心も癒され爽快。
かつて夏の暑い盛りにしばしばターンテーブルに載せていたアナログ・レコード、アリシア・デ・ラローチャがサー・ゲオルク・ショルティ&ロンドン・フィルの伴奏で残した不滅の記録K.595。
白鳥の歌を思わせる、この透明で至純な音楽こそモーツァルトの到達点。時に喜びに満ち、時に哀しみの表情を湛え、クラリネット協奏曲同様、一切の虚飾を排し、ありのままのモーツァルトがここに現出する。

しかし、当時の彼は経済的困窮の最中にあった。音楽的着想は湯水の如く溢れるも、その作品は一切の注目を浴びなかった。内心の憤りと切羽詰った気持ちが手紙から伝わる。

ぼくの個人演奏会は、名誉に関してはすばらしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。
(1790年10月15日付、フランクフルト・アム・マインにてモーツァルトからコンスタンツェ宛)
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P432

追伸 この前のページを書いていたら、涙がぼろぼろと紙の上に落ちてきた。でもいまは、陽気だぞ―さあ、つかまえろ―驚くほどのたくさんのキスが飛び回っている。
(1790年10月17日付、マインツにてモーツァルトからコンスタンツェ宛)
~同上書P433

胸が張り裂ける・・・。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
アリシア・デ・ラローチャ(ピアノ)
サー・ゲオルク・ショルティ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1977.12録音)

K.595第1楽章アレグロの哀しくも優しき主題に僕は虜になった。何より詩情豊かなラローチャのピアノの粋。そして、ここでのショルティは伴奏者としてあえて主張をしない。両者の見事なバランスが、この不滅の名作をより一層充実した名演奏に仕立て上げるのである。
そして、第2楽章ラルゲットの憂愁。ここは涙なくして聴けぬ。ようやく僕もそれが「わかる」年齢になったということだろうか。
さらには、第3楽章アレグロにおける弾けるような歓喜に、逆にモーツァルトの困惑を想う。

辻邦生氏の、モーツァルトの音楽を指しての言葉が言い得て妙。

地上に生きていることは、そのままでは、あまりに自明であって、そこから深い情感を汲み上げることはできない。情感的に涸渇するのは、この自明性が壁のように立ちはだかるためだ。モーツァルトはその自明な「生」を「死」で隈どっていた。「生」は刻々の「死」をまぬかれ、一日ごとに新たに蘇ってくる奇跡のようなものであった。昇る太陽も、朝露に揺れる草も、モーツァルトにとっては自明なものどころか、心を震わせる感動的なスペクタクルであった。
「モーツァルトの泉」
辻邦生著「美神との饗宴の森で」(新潮社)P137

死を意識することは時間を意識することだ。刻一刻と過ぎ行くその瞬間、すなわち「いまここ」を謳歌したモーツァルトにあって、自然の生業はいつも神秘であり、新鮮であった。それゆえに、彼が生み出す音楽は常に新しく、僕たちに新しい発見をもたらす。

一方、ウィーン時代絶頂期の産物であるハ長調協奏曲は、残念ながらいまひとつインスピレーションに欠ける。とはいえ、第2楽章アンダンテ冒頭のオーケストラ提示部の優美さに痺れ、その後に現れるピアノ独奏の主題の優美さに心動く。
ここでも絶大なる自信の下、ラローチャのピアノが歌う。

 

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