ヴェンゲーロフ&ロストロポーヴィチのシチェドリン(1999.6録音)を聴いて思ふ

shchedrin_vengerov_rostropovich漆黒の美しさ。
世界は共鳴で成り立っている。

ロディオン・シチェドリンがマキシム・ヴェンゲーロフのために書き下ろした協奏曲は、冒頭から実に深遠な音調を醸す。第1楽章モデラート・カンタービレでは、唖然とする技巧を伴いヴァイオリンが泣き、うねる。弦楽オーケストラによる崇高な宇宙の海を、当て所なく漂う小舟の如く独奏ヴァイオリンが揺れる。
何という絶望・・・、そして、何という希望。これはまるで人生そのものだ。

生きる瞬間、瞬間に絶望がある。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。絶望は、存在を暗くおおうのか。誰でも絶望をマイナスに考える。だが、逆に猛烈なプラスに転換しなければならない。絶望こそ孤独のなかの、人間的祭りである。私は絶望を、新しい色で塗り、きりひらいて行く。絶望を彩ること、それが芸術だ。
岡本太郎作品・文/岡本敏子編「歓喜」(二玄社)P3

岡本太郎の文章に触発される。
ヴェンゲーロフのヴァイオリンは絶望を彩る色なのだ。
哀しみの音楽を、憂鬱な音楽をどれほど生き生きと表現するのか。
第2楽章アレグロの、醒めた希望。音楽は前進し、輪舞するも極めて冷静。そして、アタッカで奏される終楽章ソステヌート・アッサイの重戦車の如くのオーケストラ伴奏の慟哭に、応える独奏ヴァイオリンの繊細な祈り。何という美しさ。

今日峻厳な魂は、合理主義・非合理主義のいずれかに偏向し、安住すべきではない。またそれらを融合して中途半端なカクテルをつくるべきものでもない。精神の在り方は強烈に吸収し反発する緊張によって両極間に発する火花の熾烈な光景であり、引き裂かれた傷口のように、生々しい酸鼻を極めたものである。
~同上書P19

恐れるな、暴れよと太郎は言う。芸術家に限らず、と僕は思う。

・シチェドリン:ヴァイオリン協奏曲「コンチェルト・カンタービレ」~マキシム・ヴェンゲーロフのために
・ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調
・チャイコフスキー:憂鬱なセレナード変ロ短調作品26
マキシム・ヴェンゲーロフ(ヴァイオリン)
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ロンドン交響楽団(1999.6録音)

ストラヴィンスキーの協奏曲第1楽章トッカータの愉悦には、ショスタコーヴィチ顔負けのアイロニーがある。七変化の作曲家の、いかにも軽妙な音楽のうちに世界に対する怒りの奔流が垣間見える。

怒りは宇宙に透明にひろがる情熱、エネルギーだ。それが現実の抵抗に向かって行動するとき、挑戦の姿をとる。
人間はいつでも戦いながら生きてきた。自然に対し、そしてまた人間同士の間で。たとえどんなに温厚で満ち足りた者でも、人生を闘いつづけている。とりわけ、積極的な人間の身を投げかける姿勢は挑戦なのだ。
~同上書P34

第2楽章及び第3楽章アリアに映る歓喜の表情にも、どこか翳りがある。この繊細かつ精神的な音楽こそ新古典主義に転じた作曲家の挑戦なのだろうか。
ちなみに、終楽章カプリッチョにおけるヴェンゲーロフの凄まじい独奏は見事の一言。
おまけのチャイコフスキーも美しい。

現代芸術のもっとも先鋭な課題は、世界性と固有性の統一にある。
ナショナリズムだとか、民族主義などという観点からでなく、
もっと肉体的に自分の神秘、その実体を見つめなければいけないと私は考える。
世界における同質化、ジェネラリゼーションが拡大すればするほど、逆にパティキュラリティーも、異様な底光りをおびながら生きてくるような気がしてならない。
~同上書P75

岡本太郎の言葉はもっともだ。本当に良いことをおっしゃる。
ところで、1998年の来日でヴェンゲーロフはNHK交響楽団をバックにシチェドリンを披露しているようだが、大変な名演奏だったとのこと。
是非とも実演に触れてみたい。

 

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4 COMMENTS

雅之

「怒り」はそうそう日常的に持続できません(「嫌われる勇気」に書かれているように、出し入れ可能な道具だとしても)。

そう考えると、芸術のありかたとして、アマチュアが有利な面も決して少なくないのかなと思います。

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岡本 浩和

>雅之様

おっしゃる通りです。
言葉の使い方が20世紀的ですよね。
ただし、岡本太郎の言う「怒り」というのは言葉通り「情熱やエネルギー」を指すもので、一般的に使う「怒り」とは少々異なるのではないかと思います。

>芸術のありかたとして、アマチュアが有利な面も決して少なくないのかなと思います。

芸術がお金に換算されたときから芸術の在り方が変わってしまったんだろうと思います。

返信する
雅之

>岡本太郎の言う「怒り」というのは言葉通り「情熱やエネルギー」を指す

いうなれば昔よく話題にした “passion” 

http://dictionary.goo.ne.jp/ej/61706/meaning/m0u/

でしょう。

岡本太郎が生きていた時代の日本は、現在よりも公憤・私憤とも過激だったですよね。

今は、良くも悪くも冷めています。

好きの反対は嫌いではなく無関心だとすると、若い世代の「省エネな冷淡」は、「怒り」よりももっと残酷な上の世代に対する反抗の意思表示かもしれないです。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

はい、まったくその通りです!

>今は、良くも悪くも冷めています。

というより陰湿になってますよね。それこそpassionのない無慈悲な怒りでしょう。

>もっと残酷な上の世代に対する反抗の意思表示かもしれないです。

同感です。

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