岩城宏之指揮N響の黛敏郎「曼荼羅交響曲」(1965.5&7録音)ほかを聴いて思ふ

mayuzumi_mandara_iwaki_nhk626日本の奥ゆかしさと懐の深さを思う。
しかしながら、現代の僕たちは古来のそういうものを忘れてはいまいか。
それこそコヴィー博士が言うところの「個人主義」ではなく、「人格主義」。各々がどの瞬間においてもベストを尽くすこと。

永田町駅のホームを歩いていて脳裏に突如鳴り響いた「舞楽」の、日本的イディオムと西洋的イディオムの交錯に僕はそんなことを思った。この、バレエを伴う深遠な作品に凝縮された宇宙には、すべてが一体であることを呈する何とも潔い歌がある。
雄渾かつ堂々たる第1部の荘厳な響きに嘆息。冒頭、あるいはコーダで長く引き伸ばされるヴァイオリンのホ音に、普段僕たちが意識しない空気を思う。
雅楽の雰囲気を余すところなく醸す第2部は、打楽器の重い響きと弦楽器や管楽器の饗宴。黛の音楽の充実度は計り知れない。何より後半の爆発と急激なスピードに異様な興奮を覚える。生きていて良かったと、大袈裟だけれど。
静かに、そして遅々とした動きの中に垣間見る踊りの魔法。

黛敏郎:
・バレエ音楽「舞楽」(1962)(1967.3.14録音)
・曼荼羅交響曲(1960)第1部(1965.5.31&7.16録音)
―第1楽章「金剛界曼荼羅」
―第2楽章「胎蔵界曼荼羅」
岩城宏之指揮NHK交響楽団

唸り、炸裂する「金剛界曼荼羅」の頭脳的な様相に対して、「胎蔵界曼荼羅」にある幽玄の響きは聴く者の魂に直接触れ、愛に満ちる。
神秘のヴァイオリンの音色、そしてかそけく渡るシロフォンのリズム。
ちなみに、黛が意図したのはヤントラの音化だという。

対象が思想という抽象的なものであるために、音楽にあっては、一切の具体的な素材、たとえば経文などを用いずに、もっぱら純粋な音響の集合体の構築によって、所期の意図を達成しようと計画した。
COCO-73165ライナーノーツ

つまり、エネルギーそのものの音化ということだ。
この高鳴る音楽を耳にすることで聴く者を開かせようとまで黛が意図したのかどうかはわからない。それにしても、聴くうちに言葉を超えた瞑想があることは間違いないように僕は思う。

宇宙を象徴するモチーフ。この一個の鐘に万物を濃縮するのである。
それは仏教の教義のなかでも広大な宇宙観である「曼陀羅」の思想に通じる。
鐘自体が曼陀羅であって、打ち鳴らすと、仏・菩薩・妖怪・人間・動物・宇宙全体が叫ぶ。
もっとも灼熱的な部分は人間である。無数の角のように突き出した腕、宙に舞い、身を躍らせ、絶対に向かって呼びかけ、手を差しのべる、迷いながら絶対に合一する。
岡本太郎作品・文/岡本敏子編「歓喜」(二玄社)P50

これは岡本太郎が1950年に創作したブロンズ「梵鐘・歓喜」への言葉の一節だ。
「迷いながら絶対に合一する」というフレーズが、それこそ黛敏郎の「曼荼羅交響曲」に覆い被さるよう。ここには人智を超えた大宇宙がある。

岩城宏之没して早10年。打楽器の活躍ぶりは、さすがに打楽器奏者であった岩城の真骨頂。録音から50余年を経ても光輝放つ傑作の名演奏であると断言する。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

これは5月27日、下野竜也、新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会でも取り上げ、こちらも大変聴きごたえある演奏でした。岩城さんのものには、東京都交響楽団を指揮したもの、山田一雄さんのものもあります。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様

5月の下野&新日は僕も聴きました。素晴らしかったですよね。
ちなみに、あれは「涅槃」の方ですよ。

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