悲劇のロシア

亀山郁夫氏のテレビ講義「知るを楽しむ~この人この世界」~「悲劇のロシア・ドストエフスキーからショスタコーヴィチへ」第1回放送分を観る。
その中で亀山氏がドストエフスキー文学の特徴として「人間のもつ傲慢さ」を挙げている。例えば最も有名な「罪と罰」。「傲慢さ」の究極の形が「殺人」であるが、この「傲慢さ」は弱者の中にも潜んでいると彼は分析する。「傲慢さ」は人間の心の闇の部分であり、2001年に起こったアメリカでの同時多発テロを例にも挙げ、「テロルのない世界」を既に19世紀中頃に作家は訴えかけていたのだと説く。

どうすれば人間は「傲慢さ」を捨て、「謙虚」になれるのか?
大地を見つめること、そして生命の普遍性に気づける意識を取り戻すべきだと亀山氏は結論づける。大地を見つめることとはすなわち「自然」と直接に対峙することである。「自然」と「人間」が一体であることを認識することが重要なのだ。

世の中は日に日に便利になる。その一方で人間は大事なものを忘れる。昨日のES講座中に大学生たちと話をしていたのだが、今の若者は携帯電話もパソコンもなかった時代を知らないというところから親や家族とのコミュニケーションに話が及び、その昔、僕が大学生だった時代は友人や彼女に電話するのも家電だったし、そのお陰で相手の両親とも話ができ、仲良くなれたものだと語ったら、若い彼らは少々びっくりしていた。今は個人と個人が直接つながってしまうものだから、電話ひとつとってみても「誰が出るかわからない」というドキドキ感が少ない。そして出る方も都合が悪ければ電話を取らなければいいわけだし、人間の関係がますます「薄く」なっていくのはいたしかたないのかもしれない。文明の発達により、人間は「自然」の状態からますます離れてゆく。
人間は「持つ」ことによって「傲慢」になるのだろうか・・・。
持たざるものは「謙虚」であるのかもしれない、などなどと思い巡らしながらチャイコフスキーの音楽を聴く。

チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団

北の大地の「悲劇」をそのまま音化したようなチャイコフスキーの傑作交響曲。あまりに有名でポピュラー過ぎて玄人筋にはあまり人気はない曲だと思うが、たまに聴くと身震いがするほどの感動を与えてくれる音楽である。
特に終楽章のアダージョ・ラメントーソは作曲者の「辞世の句」であり魂の叫びが全編を通して聴こえてくるようだ。
以前とりあげたフルトヴェングラー盤は戦前のSP復刻盤なのでどうしても音質に不満が残る。1959年の録音とはいえこのフリッチャイ盤は抜群に音も良く、おススメの超名演である。

ちなみに、実演では3年ほど前だったか、ゲルギエフが故郷北オセチアでのテロ犠牲者を追悼してウィーン・フィルとともに「悲愴」1曲のみをサントリーホールにて演奏したライブが印象的だった。

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