信用するのは自分の耳だけ

brahms_sonata_kyungwha.jpg1年前は何をやってたんだろうなどと思いながら、時折、自分の過去のブログ記事を見返すことがある。採り上げている音盤と書かれている内容を見ると、即座にその時の光景が眼前に蘇るように思い出される。
相変わらず時間の経過の速さを痛感すると同時に、過去がすでに過去のもので、その過去に振り回されることなく、「今」と真剣に向かい合うことの大切さをあらためて実感する。たくさんの人と出逢い、そして多くの人々と対峙し、語り合ってきた。どの経験も「今」を形成する大事な「点」である。もはやほとんど連絡を取らなくなってしまった人もいる。もちろん喧嘩をしたというわけではない。ただ縁が遠くなった。一方で、日々新しい出逢いが生まれ、長い時間をおいて再び縁がつながるということも多い。

今の自分に必要な情報と、今の自分と対等に交われ、協力関係が維持できる人間関係が、まるで目に見えない糸でつながれているかのように形成される。何度もしつこく書く。「決める」こと、「意思を明確にする」ことが重要。

「レコード芸術」3月号を読んでいて、宇野功芳氏の「樂に寄す」という記事に目が留まった。
「ぼくは基本的に楽員の指揮者評は信じない(夫人などはもっと悪い)。たったひとりの楽員の話を聞いて、それを真に受ける人がよくいるが、とんでもない話で、ぼくが信用するのは自分の耳だけ。(中略)大多数の人が評価しても、自分が評価しなければ、そのほうが正しいのだ。」
近年の宇野先生の音楽評論はかつてほどの勢いはなくなったように思うのだが、それにしても彼の「評論」というものについての自論がこの言葉に集約されているようで、心の中で快哉を叫ばせていただいた。そう、これこそまさに日頃僕が提示する「ぶれない自分軸」ということ。それは決して自己中心ということではない。高飛車、傲慢になるということでもない。自身の意思、自身の感性を信じるということに他ならない。
ところで、僕は、「ワークショップZERO」を一人でも多くの方々にしていただくためにどういう宣伝活動をすれば効果的かこのところいつも腐心する。一番は、受講していただいた方の推薦、つまり人が人を呼ぶという形が理想だと思うのだが、体感的学習をモットーとしているこのセミナーほどある意味「人の意見」こそ曖昧であり、信憑性が薄いという見方もできるといえばできる。斜に構えてものを見る人などはそういう感覚なのかもしれない。ただし、当事者としては、多少なりとも興味を持ったなら、自分を信じ、勇気を持って参加してみろと声を大にしたいところだ(笑)。

宇野先生が自分の耳を信じると言い切れるのは、それだけ過去に蓄積した音楽体験と体感的知識があるからだと僕は思う。人は誰でも経験のないことについては一切語れないはず。推測でものを言っても仕方がないことだから。人の意見はあくまで参考に過ぎないのだ。いかに日々、自身の感覚を磨くか、正しくものを判断する直感を身につけるかが大切だ。自身の感性を磨くこと、そして体感してみること。これに尽きる。

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78「雨の歌」
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
ペーター・フランクル(ピアノ)

僕はブラームスの第1ヴァイオリン・ソナタをとても好む。第1楽章冒頭のフレーズから一気に彼の世界に惹き込まれてしまう。円熟のブラームスの筆から生み出された一つ一つの音の連なりが、聴くものの心を打つ。ちなみに、「雨の歌」という俗称は、第3楽章の主題に自作の同名の歌曲からの旋律を引用しているからだが、歌曲「雨の歌」はクララ・シューマンの大のお気に入りだったらしい。うん、ヨハネスのクララに対する「想い」は並大抵じゃない・・・。

第24回「早わかりクラシック音楽講座」の日程を繰り上げた。当初、3月は諸々の事情で開催できないかと思ったが、何とか一日確保できた。大好きなブラームスを採り上げるにあたり、久しぶりに彼について言及した文献を時間をみて読み返している。19世紀後半に活躍した音楽家の例に違わず、ブラームスに関しての情報は多い。よって、これほど「人間性」を面白く垣間見れる作曲家は講座のテーマとして採り上げる価値十分。まだ残席あるのでご興味ある方は是非!


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
1.宇野功芳先生の信奉者のひとりである私が、宇野先生に教わったこと。
「たったひとりの評論家(宇野先生)の話を聞いて、それを真に受ける人がよくいるが、とんでもない話で、ぼくが信用するのは自分の耳だけ。大多数の(評論家)が評価しても、自分が評価しなければ、そのほうが正しいのだ」
2.「ぶれない自分軸」について。岡本さんのブログにコメントさせていただいているうちに思ったのは、「ぶれる」という言葉の守備範囲が岡本さんと私で違うこと。多分次のような場合は私は「ぶれる」と考え、岡本さんは「ぶれる」に括らないでしょう。この件、それだけの話ですね。
①「クラシック音楽を聴き始めたころ、ブルックナーの音楽が大嫌いだったが、今は最も好きになった」
②「社会の価値観・ニーズの変化に伴い、会社の経営理念・方針も変革させる」
③「構造改革路線を支持したが、実施の結果、改革による負の部分が顕著化し、是正する必要性を痛感し是正に賛成することにした」
3.ヨハネスのクララに対する「想い」を持ちだされるたびにシューマン好きの私は腹が立ちます。別に他の作曲家にまつわる男女関係や不倫話に比べたら全然たいした話ではないのですが、ヨハネスのほのめかすような煮え切らない態度が我慢なりません!・・・
と書いていたら、おや!、どこからともなくクララ様の歌声が・・・。
「けんかをやめて 二人をとめて
私のために争わないで もうこれ以上
ちがうタイプの人を
好きになってしまう
揺れる乙女心 よくあるでしょう・・・」(作詞・作曲 竹内まりや)
あっ!大変失礼いたしました!m(__)m
http://classic.opus-3.net/blog/j/post-22/#comments

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
1.ハハ、おっしゃるとおりです!
2.これもそうですね。僕がぶれるというのは、簡潔に書くと、あくまで「他者評価」をものさしにして意思を決定する状態のことです。ですから、ご指摘の3点の場合は確かにぶれてるとは考えませんね。
3.雅之さんのシューマン好き、ブラームス嫌いは筋金入りですね(笑)。僕はどちらかというとブラームス派でして・・・m(__)m
しかし、こうやって雅之さんとやりとりをしてきたことで、少なくとも1年前よりはシューマンについて一層身近に感じるようになりました。もちろんシューマンの曲ももっともっと勉強してみたいと思うようになったことが収穫です。
とはいえ、「ほのめかすような煮え切らない態度」ではなくて、あくまで謙虚さだったと僕は信じているんですが。尊敬する師への忠誠というか何というか。野獣のような男だったらライバルは亡くなっているわけですから、すぐ自分のものにしてしまうんでしょうけどね。ワーグナーやリストだったら亡くなってなくても横取りしてしまうでしょう(笑)。初心で素直ですねぇ、ブラームスは。そのあたりのウジウジした性格がまた堪りません。
>「けんかをやめて」
これは名曲です!世のもてる女性は少なからずこういう体験はあるんでしょう。

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雅之

こんばんは。
さっき夕食の後、竹内まりやを聴いていて思ったんですが、ブラームスの第1ヴァイオリン・ソナタ「雨の歌」に相応しいまりやの歌はこっちでしたね(笑)。
『恋の嵐』
作詞 作曲 竹内まりや
ふと触れた指先に
心が揺れる夜は
秘め続けた想いさえも
隠せなくなる
友達でいたいけど
動き出したハートは
もうこのまま止められない
罪の始まり
Dance,Dance,Dance,
頬を寄せて 強く抱いて
ステップ踏むの
Chance,Chance,Chance,
まだ今なら 帰る場所を
選べるわ
あなたの車に乗り
駆け抜ける雨の街
涙色に輝いてる
せつないくらい
二人を急かすように
降り続く雨の音
誰もいない駐車場で
止めたエンジン
Rain,Rain,Rain,
窓を打って もっと降って
嵐を呼んで
Pain,Pain,Pain,
恋するほど ついてくるの
哀しみも
Rain,Rain,Rain,
窓を打って もっと降って
嵐を呼んで
Pain,Pain,Pain,
胸の痛み 熱いキスで
忘れたい
http://www.youtube.com/watch?v=zrFM3D0-OA8

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