ジュリーニ指揮スカラ座フィルのベートーヴェン交響曲第6番「田園」(1991.9録音)を聴いて思ふ

beethoven_6_giulini_scala654大自然の呼吸はゆったりとして大らか。
自然の営みは一切ぶれず、季節が巡り巡る。これぞ「自然の法則」なり。
中でも「水」は生きとし生けるものになくてはならぬもの。

世界じゅうに、水より以上に柔らかで弱々しいものはないが、それでいて堅くしっかりしたものを攻撃するとなると、それに勝るものはない水の性質を変えさせるものがほかにはないからである。
(「老子道徳経下篇」第78章)
金谷治著「老子―無知無欲のすすめ」(講談社学術文庫)P231-232

そんな自然、大宇宙を描いた音楽作品は古今東西おそらく数多ある。
それでもベートーヴェンの「田園」交響曲は、やっぱり指折りのひとつであると僕は思う。
聖なるベートーヴェン。
第2楽章「小川のほとりの情景」は水の大切さを、滔々と流れる小川を美しく描写する。かっこうの、ナイチンゲールの鳴き声は木々や水あってのもの。生命あるものはすべて共鳴し、共に生きているのだ。また、第4楽章「雷鳴、嵐」は両刃の剣たる水の脅威を歌う。光を伴う激しい風雨は人々が、動物が、そして植物が生きていく上で必須。すべてはその後の祈りのためにある。

悠揚たる「田園」交響曲。
カルロ・マリア・ジュリーニがスカラ座フィルを振って録音したベートーヴェンの交響曲は、いずれもが愚直なまでのひらめきに溢れる名演奏だが、特に第6番は素晴らしい。

「道」がものを生み出し、「徳」がそれを養い、物となったものがはっきりした形をとってゆき、道具として役割をになったものがこの世界をつくりあげている。それゆえ、万物はどんなものでもすべて「道」を尊敬し、「徳」を貴ぶのである。そして、「道」がそのように尊敬され、「徳」がそのように貴ばれるのは、そもそも誰かに任命されて高い爵位についたからではなくて、いつもおのずからにそうなったのである。
(「老子道徳経下篇」第51章)
~同上書P160

終楽章「牧歌―嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」は、さしずめ「道」の働きの体現だ。
悟りを開いたベートーヴェンの意志が、ジュリーニの棒を借り、一層祈りに満ちた音楽を奏でる。コーダの暗黒のひらめきは、かのヘルベルト・ケーゲルのドレスデン・フィルとの最後の来日公演のそれを髣髴とさせる。あまりに美しい。

ベートーヴェン:
・「コリオラン」序曲作品62(1992.11.17録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1991.9.27&28録音)
・「エグモント」序曲作品84(1992.9.22録音)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮スカラ座フィルハーモニー管弦楽団

「エグモント」序曲に内在する優しさを見事に音化するジュリーニの技。激烈なティンパニの強打を伴った堂々たる響きは雄渾の気概を表現する。
また、「コリオラン」序曲の内側にほとばしる情熱は、音楽の進行に合わせ外に向かって発露する。コーダの静けさの幽玄。

 

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