エリック・ハイドシェック・ピアノ・リサイタル

heidsieck_20090917.jpg光と熱。自然の恵み。近頃太陽が美しい。特に昨日見た「お天道様」は一際温かく輝かしかった。
今夜、紀尾井ホールで観たエリック・ハイドシェックのリサイタルもまさに「光」と「熱」を帯びた、老齢の紳士による音楽ファンへの温かいプレゼントだった。一時の勢いはさすがにないものの、相変わらずのキラキラしたピアノの響きは健在で、熟れ頃の果実がもつ豊潤な薫りと散り際の花々が最後の輝きを放つような「侘び寂」、枯れた味わいをあわせもつ名演奏が繰り広げられた。

さすがのハイドシェックも歳には勝てぬのか、プログラムはいつもより1,2曲分ほど短めで、アンコールを6曲演奏してくれたものの20分の休憩を挟み、合計1時間45分足らずでリサイタルは終了した。

 

・ハイドン:ピアノ・ソナタ第59番変ホ長調HobⅩⅥ:49
普段僕が聴きなれているホロヴィッツの演奏とは別の曲のように聴こえる冒頭から既にハイドシェック節。ハイドン後期のこの傑作が明らかにベートーヴェンに影響を与えたのだろうか、例の「運命」動機が見え隠れする。そのあたりの機微を明確に知らしめてくれるハイドシェックのピアノの魔法に一気にかかってしまう。第2楽章アダージョ・エ・カンタービレの美しさはいかばかりか。そして、フィナーレのメヌエットの軽快で明るい響きは愉悦のひと時を僕らにもたらしてくれる。

・シューマン:子どもの情景作品15
これまたハイドシェックならではの、あっという間に過ぎ去った「幼少のあの頃」を髣髴とさせる流れる「水」のような音楽。昨年発売されたCD以上に自由奔放で、しかも透明である。前半、多少気分が乗らなかったのか、僕は第7曲「トロイメライ」を過ぎた頃からやっと彼の紡ぎ出すピアノの音に心を奪われるようになった。特に、第12曲「子どもは眠る」、第13曲「詩人は語る」はめくるめくファンタジーを締め括るに相応しい名演奏だったと思う。

ここで20分間の休憩を挟み、第2部が始まる。まずは、本邦初演のハイドシェック作「5つのプレリュード」から。

・ハイドシェック:5つのプレリュード “Amare Doloris Amor〈詩/Maurice Courant〉”より
もともとはバリトン歌手によって92年11月に初演された自作らしいが、今回は前奏曲としてピアノ・ソロでの演奏。決して難解ではない、耳に心地良いメロディとハイドシェックらしい技巧を凝らした佳曲。こういう音楽を聴くと、作曲家ハイドシェックの腕前も相当なものだということがよく理解できる。

・ドビュッシー:子供の領分
そして、本日の白眉であるドビュッシー!!!とにかく美しい。第5曲「小さな羊飼い」では、まるで時間がストップしたかのような錯覚に襲われるほど、すべてが輝いて見えた。第6曲「ゴリウォークのケーク・ウォーク」はまるで今そこで生まれたばかりの音楽であるかのように煌びやかで粋な響きでいっぱい・・・。これが聴けただけでも本日の価値は十分にあり。

ところで、予定プログラム終了後、例によってサービス精神旺盛のエリックは6曲ものアンコールに応えてくれた。

・フォーレ:ノクターン第3番変イ長調作品33-3
・ドビュッシー:前奏曲集第1巻~第11番「パックの踊り」
・ベートーヴェン:6つのバガテル作品126~第3番
・J.S.バッハ:パルティータ第2番ハ短調BWV826~サラバンド
・ヘンデル:組曲第1番イ長調~前奏曲
・ヘンデル:組曲第3番ニ短調~前奏曲

毎回感じるのだが、ハイドシェックのリサイタルの真骨頂は実はアンコールにあるのではないか。そんなことを思わせる絶妙な選曲といとも簡単にさっと弾いてのけるかっこう良さ、そしてホスピタリティー。プライベートに弾いてもらっているかのような心地良さと、そういうリラックス・ムードの中にも奏者、聴衆とも「真剣さ」を失わないというバランス感。終了後のサイン会まではさすがに遠慮したが、いつも同様長蛇の列だった。ハイドシェックの「人間力」には毎々恐れ入る。感謝。


7 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ハイドシェック、相変わらず良かったですか! 調べたら、名古屋でも9月11日(金)に、モーツァルトのピアノ協奏曲 K537「戴冠式」を弾いていました。この曲も、ハイドシェックでなら聴いてみたかったです。
73歳にもなって、大したものですね。
ハイドシェックは、奥さんのターニャさんと結婚たのが1960年ですから、来年金婚式になりますよね。記念すべき来年は、夫婦デュオも、日本で演奏してくれないのですかねぇ?
(これでは普通のコメント過ぎて、私らしくなく面白くありませんので・・・)
ところで、私はグレン・グールドの人生を、「悲惨」だとは毛頭考えておりません。もとより自分の人生が幸福か不幸かなんて、自分の心が決めることで、他人がとやかく言うのは大きなお世話だと思っています。妻子や友人や経済的に恵まれていなくても、体に障害を持っていても、その人がその人の価値基準で幸福だと思っているのなら、それは幸福な人生だし、いくら家族やお金に恵まれていても、不幸だと思って生きている人はいくらでもいます。それに、120歳で死のうが50歳で死のうが、宇宙や地球の歴史から見れば、ほんの一瞬の出来事で、どれだけ充実した人生だったかということのほうがよほど重要だと、私は思います。
ハイドシェックも、グールドも、演奏で多くの人の傷ついた心を癒し、励まし、感動させた、最高の人生だと、私は考えます。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
相変わらず良かったですね。さすがに73歳ともなればテクニック的には瑕はありましたが。そうそう、名古屋でもコンチェルトやりましたよね。同じく聴いてみたかったです。
>記念すべき来年は、夫婦デュオも、日本で演奏してくれないのですかねぇ?
確かに!!演奏してもらいたいですね。
あと、グールドについての見解、そのとおりだと思います。他人がとやかく言うことではありません。
>どれだけ充実した人生だったかということのほうがよほど重要だと、私は思います。
時間ではなくて、深さですね。そういう意味ではとても濃い人生を生きた人なんでしょうね、グールドは。
>ハイドシェックも、グールドも、演奏で多くの人の傷ついた心を癒し、励まし、感動させた、最高の人生だと、私は考えます。
同感です。

返信する
畑山千恵子

私も聴きに行きました。ハイドンの機知、シューマンのロマン性、自作があっという間に終わったこと、ドビュッシーの素晴らしさ、こちらも引き付けられてしまいました。
私はドビュッシー、前奏曲集第1巻、第2巻、全曲を聴いてみたいものですね。フランスのピアニストだからできるドビュッシーのエスプリに満ちた味わいをじっくり聴いてみたいものですね。
ただ、ベートーヴェンだとちょっと辛いかもしれませんが。昨年の味わいに満ちた演奏も捨てがたいものでした。1968年の初来日から今年で41年目とはいえ、しばらく忘れられていた時期もありました。
私がハイドシェックを聴き始めたときは1998-1999年のベートーヴェンツィクルスでした。しかし、これが未完に終わったことが残念でしたね。東京、横浜で同時に行われ、横浜まで行ったことは1つの思い出として残っています。

返信する
岡本 浩和

>畑山千恵子様
こんにちは。コメントありがとうございます。
畑山様も聴きに行かれていたのですね。
ドビュッシーの前奏曲集全曲いいですねぇ。以前にも彼がアンコールでいくつか演奏した記憶がありますが、どれも名演奏でした。
>私がハイドシェックを聴き始めたときは1998-1999年のベートーヴェンツィクルスでした。しかし、これが未完に終わったことが残念でしたね。
畑山様もこのツィクルス行かれていたんですね。ハンマークラヴィーアの終楽章で止まってしまった時はどうなるかと思ったものです。あれからもう10年以上経つんですね。
ちなみに僕が初めて初めてハイドシェックに触れたのは確か92年のリサイタルとモーツァルト第27番とベートーヴェン「皇帝」という協奏曲の夕べでした。背筋が凍りつくくらい圧倒されたことを覚えています。

返信する
trefoglinefan

私は練習でハイドンを聴いたのですが、
まるでベートーヴェンのようで驚きました。
やっぱりドビュシーが素晴らしいと思うのですが、
今回は(今回も)東京や大阪に聴きに行けません。

返信する
岡本 浩和

>trefoglinefan様
こんばんは。
練習を聴かれているのですか!それは逆に興味深いです。
本番の演奏もまさにベートーヴェンのようでした。
ドビュッシー、いいですよね。畑山様がおっしゃるように前奏曲集全曲聴いてみたいものです。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む