ディーナ・ウゴルスカヤのベートーヴェン作品106&作品111(2011.11録音)を聴いて思ふ

beethoven_106_111_dina_ugorskaja683たとえ親子といえども人格は別。生まれてきた意味も意義も、あるいは使命も当然異なるもの。
ディーナ・ウゴルスカヤのベートーヴェンは父アナトール・ウゴルスキのそれと違って柔らかく母なるものに満ちている。彼女の奏する、母性をくすぐる最後のソナタ作品111に感銘を受けた。
この作品は解脱と昇華を意味する崇高なものであると僕は信じてきた。それゆえ、説得力のある演奏をするには相応の人生経験が必要だと思っていた。しかし、もはやそれはそうではないのかも。まさにパラダイム・シフト。時と場所を超え、ただそこに在るということ。天使の歌。淡々と語られる音楽の内側に感じるものはそれだ。
第1楽章マエストーソ―アレグロ・コン・ブリオ・エト・アパッショナートに暗澹たる闘争はない。冒頭からすべてを包み込み、調和と安息に支配される音楽は涙が出るほど美しい。そしてまた、見事に透明な第2楽章アリエッタ。音楽は、ある時は遅々として進まず、またある時は一気呵成に跳ね、動く。しかし、ディーナは何よりひとつひとつの音を大切にする。その瞬間も実に丁寧に音楽が紡ぎ出されるのだ。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)(2011.11録音)

「本質のみを語れ」というベートーヴェンの、研ぎ澄まされた本懐。世界は女性性の時代だ。
雄渾なベートーヴェンは消え去り、そして難解なベートーヴェンは隅に追いやられ、優しさと喜び、また簡潔さに溢れる。あらゆるものを飲み込み統合する「ハンマークラヴィーア」作品106。第1楽章アレグロ冒頭の主題提示は音の大伽藍の如し。しかし、音調は極めて柔らかい。
短い第2楽章アッサイ・ヴィヴァーチェ―プレストを挟み、何より第3楽章アダージョ・ソステヌート、アパッショナート・エ・コン・モルト・センチメントに醸される感謝の念の大いなる美しさ、また、強烈な切なさ。何だかずっとこの中に浸っていたいほど。
そして、終楽章での(人を寄せ付けない)偉大なフーガは決して堅苦しいものに陥らず、実に近づきやすい。音楽は躍動し、踊る。ここにはやはり苦悩はなく、ただ統合された愉悦があるのみ。

なるほど、聴覚をほぼ失くしたベートーヴェンに聴こえていたものは魂の叫びであり、それこそ彼の言う「本質」そのものだったのだろう。
聖ベートーヴェン座右の書であったであろう「バガヴァッド・ギーター」。

(行為の)ヨーガにより行為を放擲し、知識により疑惑を断ち、自己を制御した人を、諸行為は束縛しない。
それ故、知識の剣により、無知から生じた、自己の心にある疑惑を断ち、(行為の)ヨーガに依拠せよ。立ち上がれ、アルジュナ。
(第4章)
上村勝彦訳「バガヴァッド・ギーター」(岩波文庫)P55-56

このアルバムは、2012年3月30日に亡くなったディーナの母マヤ・エリクに捧げられている。それにしてもディーナ・ウゴルスカヤの眼力は半端でない。

 

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3 COMMENTS

雅之

少し肌寒くなった季節に聴くソナタ作品111に不思議な懐かしさが込み上げてきますが、それが何なのかさっぱり思い出せません。記憶を消去された「時をかける少女」の主人公のようです。

それはそうと、作品111を弾くピアニストは多いですが、「ディアベリ変奏曲」まで制覇するピアニストは少ないですよね。世のベートーヴェン:ピアノソナタ全集のほとんどにディアベリ変奏曲が入っていないのも、新しい全集が出るたびに個人的には物足りなく感じてきました。

どうせ後何年かしたらAIがビッグデータをもとに解析して弾くディアベリを含めた全集さえもが配信される時代になるのでしょうし、今ではまったくどうでもよくなりましたが・・・。

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岡本 浩和

>雅之様

>それが何なのかさっぱり思い出せません。

それは是非とも知りたいです。何とか思い出してください。(笑)
それと、おっしゃるように「ディアベリ」まで制覇するピアニストは少ないのは残念なことだと僕も思います。

>AIがビッグデータをもとに解析して弾くディアベリを含めた全集さえもが配信される時代になる

これってほんとにそうなるのでしょうか??怖いもの見たさですが、恐るべき時代ですね。

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