フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管のワーグナー「ワルキューレ」(1950.3.9Live)を聴いて思ふ

気管支炎が悪化したので、目下床についています。熱もかなりあるのです。経験上、いかなる場合も抗生物質のたぐいは用いないことにしていますので、これは長引きそうです。こういうわけで、19日にお訪ねすることはおそらくできないでしょう。どっちにしても、お便りをお待ちしております。
(1954年11月9日付、エーミール・プレトーリウス宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P313

まさか自分自身があと数週間後には命を落とすことになるとは思っていなかっただろう。否、それとも相応の予感はあったのかどうなのか。人の命はわからぬもの。ならば、いつどんなときも手を抜かず、懸命に生きようではないか。

真の意味の、命懸けの音楽を創造できる音楽家が少なくなったと彼は嘆く。

いったい—指揮が、初めから終わりまで「習得」可能な「技術」となってしまったかぎり—おびただしい数の指揮者がいることは事実です。しかし、作品に生命を賦与する、真の意味の解釈をなしうる人は、きわめて少ないのです。そう、年とともに少なくなっていると言いたい気がします。それが何に由来するかは、簡単には言えません。しかし、いみじくも貴殿のご指摘にあってように、指揮者の体の動きが現にそこで鳴っている音楽と一致しないとすれば、その原因は帰するところ一つでなくてはなりません。指揮者が、目の前で演奏されている音楽の特質、形姿、本質について、内的な理解に到達していないからなのです。一つの音楽作品の形姿や本質に通暁する能力は、しょせん一つの能力にとどまります。そこで指揮の要諦は、自分にないものを作らぬことです。自分の本性にないものをありそうに見せかけることは不可能です。
(1950年9月10日付、フリッツ・エップレン宛)
~同上書P243-244

本性、すなわち感覚にいかにアクセスできるかが、人の心を動かす鍵なのだとフルトヴェングラーは言いたいのだろうか。言葉を得た人類の課題は、いつどこでも変わることのないもの。

同年春の、ミラノ・スカラ座での「指環」ツィクルスは、聴衆に大きな感動を与え、幕を下ろしたそうだ。残された録音が、果たして彼の演奏の神髄を伝えきれているかと言えば「否」だけれど、古びた音響の向こうから微かに感じとれるワーグナーの「本質」は、崇高でありながら熱波の如くの神性と激性に溢れ、聴いていて息が詰まるほど。

楽劇「ワルキューレ」第2幕。音楽は終始うねり、弾け、轟く。

・ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」
ギュンター・トレップトウ(ジークムント、テノール)
ルートヴィヒ・ウェーバー(フンディング、バス)
フェルディナント・フランツ(ヴォータン、バリトン)
ヒルデ・コネツニ(ジークリンデ、ソプラノ)
キルステン・フラグスタート(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(フリッカ、メゾソプラノ)
イローナ・シュタイングルーバー(ヘルムヴィーゲ、ソプラノ)
ヴァルブルガ・ヴェゲナー(ゲルヒルデ、ソプラノ)
カレン・マリー・チェルカル(オルトリンデ、ソプラノ)
ダグマール・シュメーデス(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)
マルグレート・ヴェート=ファルケ(ロスヴァイゼ、アルト)
マルガリータ・ケニー(ジークルーネ、メゾソプラノ)
ジークリンデ・ワーグナー(グリムゲルデ、メゾソプラノ)
ポリー・バティチ(シュベルトライテ、アルト)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(1950.3.9Live)

第4場冒頭、テューバとティンパニによる「運命の動機」の不気味な調子は、まさにフルトヴェングラー流。そして、「ジークムント!私の方を見なさい!」という問いかけに始まるブリュンヒルデに扮するフラグスタートの神々しさ。音楽と歌唱が一体となり、ワーグナーの愛と死の官能の世界をこの一瞬に閉じこめる魔法。また、第5場終結、裏切りのブリュンヒルデに対し、怒りを露わにするヴォータン演ずるフランツの白熱の歌唱に感応。この後、一気に畳みかけられる音楽は、フルトヴェングラーの真骨頂。

ミラノから直接こちらへ飛びました。スカラ座では、優秀な歌い手たち(フラグスタート、スヴァンホルム、ローレンツら)と、たんねんな試演をなんどもやったうえで、ワーグナーのニーベルングの指環全曲を演奏しました。そのテキストの大部分は理解できないこの長大な作品の全曲演奏を、イタリアの聴衆がどのように受けとめたかは、驚くべきものがあります。それは大成功でした。しかも回を追うごとに喝采は高まっていくばかりでした・・・。
(1950年4月11日付、ブエノス・アイレスよりマックス・ブロックハウス宛)
~同上書P242

ワーグナーの音楽には、あるいはフルトヴェングラーの音楽には、言葉を超えた、魂に直接響く何かが宿るのだと思う。それこそ本性へリーチする極めつけの才能!
第3幕終結「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」での、フランツの入念な歌唱然り、スカラ座管弦楽団の音が、まるでフルトヴェングラーの長年の手兵であるかのように暗く、熱く、そして重厚に阿鼻叫喚する様に、僕は思わず金縛りに遭う。

いっこうにご返事がありません。感情を害しておられると思わなくてはならないのでしょうか。決してそんなことのないように、お願いいたします。このところどうも具合がよくなく、2,3週間熱が下がりません。11月19日―これが、最終的に決まった講演予定の日でしたね—どうしてもミュンヘンに行けそうにありません。12月にはとにかく元気になれることを、ひたすら願っております。
(1954年11月12日付、エーミール・プレトーリウス宛)
~同上書P315

彼にもはや12月はなかった。
1954年11月30日、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー没。享年68。

 

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