團伊玖磨指揮東京シティ・フィルのオペラ「夕鶴」(1994.3Live)を聴いて思ふ

ikuma_dan_yuzuru688愛と権力は共生できないのだろうか?
ここでも女の純愛と自己犠牲が主題となる。自己犠牲というとどうにもネガティブだが、本人には犠牲という意識はそもそもない。愛がすべてを上回るのである。本来母性というのはそういうものなのだろう。
しかしこの物語において、最後はつうが「あれほど頼んでおいたのに・・・あれほど固く約束しておいたのに・・・あんたはどうして・・・どうして見てしまったの?・・・」と恨み節を切々と訴えるのだから、つうの愛というのは純愛ではなかったということになる。そもそも何かを禁じる行為そのものが愛ではないと。

やはり人間には永遠に乗り越えることはできないのだろうか。
いわゆる俗世間にまみれて純愛を保つというのは至難の業だ。並の人間にはできぬこと。思考や感情がどうしても壁となる。それゆえに、古来人々はそういう駆け引きを持たぬ動物たちに真の愛の姿を託して表現しようとしたのかもしれない。

かれこれ30年近く前のこと。たった一度だけ鮫島有美子さんと仕事をさせていただいたことがある。僕は裏方で、ましてや新人だったということもあり、楽屋でほんの少しご挨拶をさせていただいただけなので、一緒に仕事をしたといううちには入らないかもしれないけれど。
ご主人のヘルムート・ドイチュさんもいらっしゃり、おそらくリサイタルだったと思うのだが、不思議なことに鮫島さんの清楚で凛とした姿だけが脳裏にはっきりと刻み込まれていて、その舞台については一切の記憶が吹き飛んでしまっている。場所がどこだったのかすら思い出せない。

その数年後の、新宿文化センターでの「夕鶴」。木下順二さんの戯曲に團伊玖磨さんが音楽を付した日本発の歌劇の傑作。残念ながら僕はその舞台には触れていない。しかし、音盤を聴く限りにおいて鮫島有美子さんの哀切溢れ、その上色香に満ちる歌声に、この人のつうは最高のつうであったことが想像される。

与ひょう、あたしの大事な与ひょう、あんたはどうしたの?あんたはだんだんに変わって行く。何だか分からないけれど、あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。あの、あたしには言葉も分からない人たち、いつかあたしを矢で射たような、あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの?あんたは。どうすればいいの?あたしは。あたしは一体どうすればいいの?・・・あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。これがほんとに嬉しかったかあ、あたしはあんたのところに来たのよ。
~COCO-78236-37ライナーノーツP26

愛の苦悩。つうの与ひょうへの心の内が語られるこの場面での鮫島さんの歌は真に堂に入る。

・團伊玖磨:オペラ「夕鶴」
「夕鶴」上演600回記念公演のライヴ・レコーディング
鮫島有美子(つう、ソプラノ)
小林一男(テノール、与ひょう)
久岡昇(バリトン、運ず)
中村邦男(バス、惣ど)
鹿児島市立少年合唱隊(子供たち)
時任康文(副指揮)
白石茂浩(合唱指揮)
團伊玖磨指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(1994.3.2&9Live)
木下順二(原作・脚本)

物語のクライマックス、機屋で機を織るつうを惣どと運ずがのぞき見し、それにつられた与ひょうが禁を破ってその場を見てしまうシーン以降の、何より團さんの音楽の哀切感満ちる美しさ(ハープのアルペジオで表現される機織りの音の色気!!)。

ちなみに、このオペラには童謡「かごめかごめ」が幾度か登場するが、「鶴と亀が統べった」という歌詞が「つるつる つうべった」に変更されている。木下さんの意図はよく知らないが、このことはあくまで「鶴が恩を返す」という貸し借りの、つまり世界の対立は結局超えられないものだということを想起する。
本当は、今こそあるべき姿、相対するものがひとつになるときだと訴えるのに元々の歌詞を歌わせた方が理に適っていると僕は思うのだが(木下さんの、一切脚本に手を入れないという約束でオペラ化された事情もあるだろうが)。

かごめかごめ
籠のなかの鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が統べった
後ろの正面
だあれ?

まさに陰陽の統一。悲しい名作だ。

 

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5 COMMENTS

雅之

「かごめかごめ」は本当に不思議な「わらべうた」ですよね。

岡本様の信念では、絶対的に「神示説」を有力と考えていますよね。

※ 神示説(提唱者不明)
「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

私はそういう〇〇〇に無条件で拒絶反応を示してしまいますし、分相応に最も郷愁と哀愁を感じるこっちの「遊女説」が好きだなあ(笑)。

※ 遊女説(提唱者不明)
一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。

※Wikipedia「かごめかごめ」より引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%94%E3%82%81%E3%81%8B%E3%81%94%E3%82%81#.E6.AD.8C.E5.85.A8.E4.BD.93.E3.81.AE.E8.A7.A3.E9.87.88

返信する
雅之

ここからは、あくまでも私独自の説です。

「夕鶴」の「つう」とは、ずばり遊女のメタファーです。

与ひょうが罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助け、鶴(つう)と夫婦になったのは、与ひょうが遊女「つう」に惚れて遊郭から逃げ連れ出し夫婦になったということ。

夫婦として暮らし始めたある日、つうが「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せ、やがてつうが織った布は「鶴の千羽織」と呼ばれし高値で売られ、与ひょうに大金が入ってくるというのは、苦しい与ひょうの家計を、つうがこっそり性を売りながら支え、客の男たちからの高価な貢物を与ひょうに見せ、そうとは知らない与ひょうの生活が楽になっていったいう隠喩。

与ひょうが、つうが織っている姿を見てしまい、正体を見られたつうは与ひょうの元を去り、傷ついた姿で空に帰っていくというのは・・・、

もうやめておきましょう。オペラ「夕鶴」自体、やはり悲し過ぎる名作です。

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岡本 浩和

>雅之様

こんばんは。
僕の場合は「神示説」でも「遊女説」でもありません。
籠の中の鳥というのはまさしく僕たち人間のことで、
相対する二元世界が真にひとつになるときこそ覚醒のときだと教えてくれているように思います。
逆に、いずれ到来するであろう統合のときに出遅れないよう目覚めの準備をせよという忠告、または警告かもしれません。

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雅之

>相対する二元世界が真にひとつになるときこそ

何時だって相対する二元世界は真にひとつですよ。長調と短調があってこそ音楽といったように。

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岡本 浩和

>雅之様

そう、そうなんです。いつだって本当はひとつなんです。
しかし、どうしても僕たちの意識(思考や感情)は相対を作り出し、「判断」してしまいます。
それを超えられたらという意味です。
言葉足らずで失礼しました。

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