表と裏があるからこの世は面白い。
ベートーヴェンの辞世の句が「諸君、喝采を!喜劇は終わった」だというのは有名な話だが、とても頷ける。この目で見ている現実が仮だとするなら真は一体どこにあるのか?
視野を広げ、視座を上げて物事をとらえない限り、その答は永遠にわからないだろう。
西洋オペラの台本は、人間の我欲をベースにして展開されるものが多くを占める。
フランス・オペラなどその最たるものだろう。フランス革命ですら茶番だと解する向きもある。歴史がすべて茶番であり、幻想だとするなら、その歴史を模倣する(?)オペラなどは茶番の最右翼だ。しかし、人々はオペラに熱狂したし、今もする。興味深いことだ。
個性的なマノンは、欲に勝てず、騎士デ・グリューも彼女に翻弄される。ほとんどゲームのような関係の中で繰り広げられる人間模様は、冷静に、そして客観的にとらえれば実に馬鹿げたものに思えるが、そもそも僕たちのこの人間社会がそういうものであり、オペラそのものが良く悪くも縮図なのだ。だからこそオペラは観て楽しい。ましてや音楽が素晴らしいのならなおさら。
ジュール・マスネの音楽はどこをどう切り取っても大衆好みで美しい。
1時間近くに及ぶ第3幕がオペラの聴きどころだろうか。第2場、神学校に入ったデ・グリューが、マノンへの想いが立ち切れず歌うアリア「消え去れ、優しい幻影よ」から醸される憧憬の念、そして、突如そこに現れたマノンによる誘惑のアリア「あなたの手を握ったことを思い出してください」の色香と熱、すべてが人間的で美しくも、ドラマの結末をどこか暗示する悲哀がロス・アンヘレスとルゲの二重唱によって表現される。
19世紀のオペラ座の桟敷席は、キャバレーさながらに、客を漁る高級娼婦やオペラ座専門のスリや置き引きでいつもあふれていたし、「アボネ」と呼ばれ、楽屋にも自由に出入りできたオペラ座の会員は、バレリーナは芸術家ではなく娼婦か芸者のように見られてたその時代、彼女らの楽屋に入りびたり、桟敷席の「控えの間」では、上演中も仲間どうしで酒を傾け賭事をし、“木のない森”と呼ばれたこの建造物の片隅では場ちがいとしか言いようのない男女の戯れを楽しんでいた。
(川竹英克「王の劇場 その後—パリ・オペラ座伝」)
~音楽之友社編「オペラ—その華麗なる美の饗宴」P139
現実こそがオペラの台本そのものだ。
世紀末の退廃どころか、オペラ座の何とも俗っぽさに呆れるくらい。文字通り事実は小説より奇なり。
[…] い。何よりマスネのメロディ・メイカーとしての才能をドビュッシーは絶賛する。実際、「マノン」にしても「ウェルテル」にしても、暗澹たるかの不倫の悲劇が明朗で美しい音楽によっ […]