牧歌、嵐のあとの喜びと感謝

beethoven_6_furtwangler_bpo_1954_5_23.jpg先日、夜中にテレビをつけたらNHK教育でクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニーの定期演奏会が放映されており、思わず見入ってしまった。ちょうどベートーヴェンの「田園」交響曲の終楽章が始まったばかりのタイミングで、この交響曲をもってベートーヴェンの最高傑作だと信じる僕は、常々この第5楽章の出来で名演か否かを決めるほどなので、ティーレマンの意外に細かい指示をじっくりと見据えながら、第6番という「音楽」の底の深さをあらためて発見させられた。この時は、ティーレマンの一歩一歩しっかり大地に踏み出すような足取りから、いかにも昔風のロマンティックな音楽が聴けることと期待した。その期待に違わず十分納得のゆく名演だったと思うが、どういうわけか後々まで記憶に残らない。もっとも実際にムジークフェラインの座席で演奏に触れているわけではないのだし、録音や記録だけで云々するのは極めて危険な行為だということは以前から散々話題にしていることなので、ティーレマンという指揮者に関してとやかくいうことは止めておくが、いずれにせよ一度しっかりと生演奏に触れねばならない音楽家だろうと再確認した(残念ながら僕は彼の実演に接したことがない)。

本日、「ワークショップZERO」の第2日目を終え、人間にとって「体感すること」がいかに重要かをまた実感させられた。皆大人なので頭ではわかっている。でも、具体的にどうすればいいのかで誰もが悩んでしまう。人が人によって生かされているということ、そしてどんな人でも完全ではないということ、そして人間はつながっているということ、そんな当たり前のことが腑に落ち、そして感動し、その瞬間に「ありのまま」の自分になっていることに気づく。不安を直視し、勇気を持って行動すれば自信を回復する。そして自身を支えてくれるすべてに感謝できる。

ところで、ベートーヴェンの第6交響曲「田園」の第5楽章は、次のような表題を持つ。作曲者自身がつけたタイトルだ。

「牧歌。嵐の後の喜びと感謝」

そう、悲しいこと、辛いこと、嫌なこと・・・、そういう状況の後に喜びや感謝の念が生まれる。まさに陰と陽が表裏一体ひとつであることを表す宇宙の音色。僕が最も思い入れのある「田園」交響曲の録音は、1952年にフルトヴェングラーがスタジオ録音したEMI盤だ。繰り返し何度聴いたことだろうか・・・。終楽章の「祈り」の表現はいまだにこれを凌駕するものはなしと思い込んでいる傑作。この古い、さびれた録音に比べてティーレマンの、少なくともテレビの録画で聴いた音楽は底が浅かった・・・(多分僕の錯覚ですが)。今日はあえて、そのフルトヴェングラーが手兵ベルリン・フィルと最晩年に採り上げた演奏会の実況録音盤を久しぶりに聴いた(表現の大筋はまったく変わりないフルトヴェングラー節)。

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.5.23Live)

死の半年前とはいえ、ライブのフルトヴェングラーは熱い。第4楽章「雷鳴と嵐」のティンパニの響きなどいかにも壮絶で生々しく、この音楽があってこそ次の「牧歌」が活きる。真にこれは「勇気」の音楽なり。

※ちなみに、僕が所有しているのは1994年にTAHRAから没後40周年記念にリリースされた4枚組のトリビュート盤(Furt1008-1011)。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
NHK教育で放映されたティーレマン指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲第4~6番、地デジ録画したものを全部観ました。画質鮮明極まりなく、音質も最高で、これならムジークフェラインの座席でナマで聴くより情報量も多く、もはや「実演でなきゃ語る資格がない」とは言えないのではないかと思いました。
3曲通じてティーレマンの解釈には、アゴーギクなどの表情付けが多く、今の指揮者には珍しく表現主義的だと感じましたが、マゼールがしばしばそうであったように、必然性の感じられない部分も多く、それを楽しめるかどうかが評価の割れるところだと思いました。
それにしてもウィーン・フィルのメンバーは管も弦も、我々がクラシック音楽に親しみはじめたころからすると、すっかり若返りましたよね。ティーレマンの解釈も、例えばコンマスがゲルハルト・ヘッツェルだったなら(そしてあのころのメンバーなら)、ずいぶん我々世代には説得力を増したのではなどという感慨に、思わずふけってしまいました。
最近、岡本さんとのやりとりを通して、ベートーヴェンの交響曲でのホルンの重要性を再認識しながら聴いているのですが、「田園」の終楽章冒頭も典型的にそうですね。
http://www.youtube.com/watch?v=iq0OPxABWuA&feature=related
昔、コメント欄でブラ1の第一楽章に出てくる「ソラソファミレミレド」音型と「田園」第五楽章に入る直前部分との関連に気づき、書いたことがありましたが、ブラ1第四楽章の有名なアルペン・ホルンの主題も「田園」終楽章冒頭ホルンと同様な、爽やかな空気と入れ替わる効果が感じられませんかね? クララへ宛てた誕生日を祝う手紙の中で”Hoch auf’m Berg, tief im Tal, grüß ich dich viel tausendmal”(「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」)という歌詞を付けたというあの部分・・・。ブラームスのベートーヴェンからの影響を、すごく感じます。フルトヴェングラー指揮によるほの暗い「田園」は、ブラームスを私に強く意識させます。
なお、「田園」終楽章とブラ2終楽章のトロンボーンの用法の類似性にも言及したいのですが、長くなりますのでまた後日に。
今朝、フルトヴェングラーの名盤「田園」の対抗として私が持ち出したいのは、シューリヒト&パリ音楽院管弦楽団による同じく名盤。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3746997
平林直哉による片面テスト・プレス盤よりの復刻CD、一聴をおススメします。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちわ。
確かに画像は極めて鮮明で、僕もその美しさについつい見入ったほどです。オケのメンバーの細かい動きをきちんと確認できるという意味では映像もありですが、少なくとも僕の家では音質重視のシステムを組んでいないのでやっぱりこれだけで云々はできません。おっしゃるように珍しく「表現主義的」ですが、どうも僕には薄っぺらくにしか聴こえませんでした。流れが自然じゃないところがあるからでしょうか・・・。
>ウィーン・フィルのメンバーは管も弦も、我々がクラシック音楽に親しみはじめたころからすると、すっかり若返りましたよね。
確かに!僕は途中から観たものですから、最初ウィーン・フィルだとは思いませんでした。コンマスがキュッヒルであることを確認してようやく理解したほどです(笑)。
>コンマスがゲルハルト・ヘッツェルだったなら(そしてあのころのメンバーなら)、ずいぶん我々世代には説得力を増したのではなどという感慨
わかります、そのお気持ち。
>ブラ1第四楽章の有名なアルペン・ホルンの主題も「田園」終楽章冒頭ホルンと同様な、爽やかな空気と入れ替わる効果が感じられませんかね?
>ブラームスのベートーヴェンからの影響を、すごく感じます。
そういえばそうですね。これは間違いないですね。
>「田園」終楽章とブラ2終楽章のトロンボーンの用法の類似性にも言及したい
これは気になります。ぜひご教示を!
>平林直哉による片面テスト・プレス盤よりの復刻CD、一聴をおススメします。
うおー、これは聴いてみたい。しかし、あえてまたこの有名な音盤を・・・。キリがないです(涙)。あまり僕をそそのかさないでください(苦笑)。

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