まるで空気のようなモーツァルト。
ただそこに在って、誰一人として意識するわけでなく、それでいてなくてはならない存在。最後は必ずそこに戻る。そんなモーツァルト。
高い空から来たものか、深い淵から出たものか、
おお、「美女」よ? 汚れて清いまなざしは
綯いまぜて徳と不徳を撒き散らし、
そなたは酒の酔いと似る。
「21美への賛歌」
~ボードレール/堀口大學訳「悪の華」(新潮文庫)P66
アシュケナージが弾き振りで録音したイ長調協奏曲K.488の素晴らしさは今もって永遠。
人生の酸いも甘いも経験し、時に暗黒の表情を湛え、時に無類の喜びの仕草を映す。それこそ「酒の酔い」と相似で、良い気分にもなれば悪酔いもする中で、見事に中和され、真水に戻ったような清廉なモーツァルト。
第1楽章アレグロ冒頭、オーケストラの提示部からして明朗で、聴く者を惹きつける。また、第2楽章アンダンテは虚ろな癒しの泉。これほどに美しい「歌」があるのだろうか。さらに、終楽章プレストの自由闊達、解放的な音楽はモーツァルトの天真爛漫。
モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ&指揮)
フィルハーモニア管弦楽団(1980.3録音)
「白鳥の歌」の如し変ロ長調協奏曲K.595の透明感は一層素晴らしい。
神経質に両翼を砂埃に漬けたまま、
生れ故郷の美しい湖水を胸に描きながら、言うらしかった、
《雨よ、何時降ってくれるか?雷よ、何時鳴り出すか?》
不思議で不吉な神話のような、あの気の毒な白鳥が、
空の方へと幾度も、オヴィードの歌の中なる流人のように、
酷いほど真青に冴えた意地悪な空の方へと、
神に恨みの数々を毒づいてでもいるように、
痙攣る頸を長くして渇いた頭をのばすのがまだ目に見える思いがする!
「89白鳥~ヴィクトル・ユーゴーに」
~同上書P202
一切の虚飾なく、モーツァルトの精神が赤裸々に表出される。
そしてまた、一切の誇張もない自然体のモーツァルト。
ある時は切なさを覚え、ある時は激情を垣間見る。ただひたすら音楽が迫り、晩年のモーツァルトの悲しみと苦しみと、それでも何とか生きようとした勇気と熱が交錯する。
嗚呼、これほど美しい音楽がかつて、そしてその後も存在したのだろうか・・・。
しばしばよ、音楽の、海のごと、わが心捉うるよ!
青ざめし、わが宿命の、星めざし、
靄けむる空の下、無辺なる宇宙へと、
われ船出する。
帆の如く、胸を張り、
呼吸かろく、
寄せかえす、波の背を、われ渡る、
夜のとばり、とざす奥。
「音楽」
~堀口大學訳「ボードレール詩集」(新潮文庫)P82-83
母なる音楽。
時間よ、止まれ!
アシュケナージのモーツァルトは不滅なり。
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そうですね。ご紹介の演奏くらい美しいと無性に悲しくなり涙が出そうで、もう、これこそ「第二の自然」としかいいようがないです。
>雅之様
>これこそ「第二の自然」としかいいようがないです
同感です!
[…] も最高の出来。 特にイ長調協奏曲K.488は、かつてウラディーミル・アシュケナージがフィルハーモニア管弦楽団と弾き振りで録音した名演奏があるが、それに負けずとも劣らぬ音楽性。初 […]