聴き方によっては何もしていない凡演に聴こえるかもしれない。
しかし、ここには晩年のレナード・バーンスタインの他では見ることのできない自然体の姿が垣間見られる。若きクリスティアン・ツィマーマンに主導権を握らせ、あくまで伴奏役として多大な包容力をもってベートーヴェンの真実の心を届けんとする脱力の奉仕とでも表現しようか。
自由闊達なピアノに、鍵盤上を煌めくピアノの音色に釘付けになる。
何より素晴らしいのは第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソ。深遠な祈り、いや、というより一時の安息、あるいは安寧。獅子奮迅、怒りのベートーヴェンとは程遠い、愛らしい、優しい、また柔和なベートーヴェン。彼の内側にある女性性が見事に前面に押し出された癒しのムーヴメント。僕は久しぶりに聴いて、思わず涙がこぼれそうになったくらい。
第1楽章アレグロも、どちらかというと粘ることなくそっけない。しかし、それは空虚とは異なる、鷹揚な空気感でもって僕たちに迫るベートーヴェンの気概。音楽は前進し、勢いも凄まじい。特に、再現部以降の華麗な表現はこのライヴ録音の神髄。嗚呼・・・。
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1989.9Live)
四半世紀前、初めてこの録音を聴いた時の印象と随分異なることに僕は気がついた。
良し悪しではない。もちろん音楽そのものに当然変化はない。明らかに僕の受け取り方が変わったのである。
「魔の山」第6章冒頭は次のように始まる。
時間とは何か。これは一個の謎である―実体がなく、しかも全能である。現象世界の一条件であり、ひとつの運動であって、空間内の物体の存在とその運動に結びつけられ、混ざり合わされている。しかし運動がなければ、時間はないであろうか。時間がなければ、運動はないのであろうか。さあ尋ねられるがいい。時間は空間の機能のひとつであろうか。それとも逆であろうか。あるいは、ふたつは同じものだろうか。さあ問いつづけたまえ。時間は活動し、動詞の性質を持っている。時間は「生みだす」のである。時間はいったい何を生みだすのか。時間は変化を生みだすのである。現在は当時でなく、ここはあそこでない。ふたつの間に運動があるからである。しかし時間測定の基準とされる運動は、循環して、完結するのだから、それはほとんど静止、休止と呼んでいいような運動であり、変化である。なぜなら当時は現在の中に、あそこがここに、たえず反復するからである。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山・下巻」(新潮文庫)P7
ベートーヴェンを聴いていて、この個所を思った。マンは今から100年前にすでに現在とここしか存在しないことを知っていて、そのことをハンス・カストルプに説かせていたということだ。
終楽章ロンドが弾ける。
時間はまさに変化を生み出すのである。
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かねてより、音楽は「時間泥棒」だと思っています。
ただ、音盤は、聴いていない時は死んでいます。
だから、CD棚は、常時99パーセント以上がカタコンベです(笑)。
>雅之様
CD棚がカタコンベだという発想に膝を打ちました!笑
[…] 史に燦然と輝く人類の至宝。※過去記事(2016年12月26日)「ツィマーマン&バーンスタインのベートーヴェン協奏曲第5番「皇帝」(1989.9Live)を聴いて思ふ」※過去記事(2014年8月25日)「 […]