モントゥー指揮サンフランシスコ響 ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」(1945.3.10録音)ほか

戦争末期の空気感。
人類を震撼させる破壊行動は、周辺で奏でられる音楽にも多大な影響を及ぼすのかどうなのか。サンフランシスコ響時代のピエール・モントゥーの音楽が強烈なのは、時代の空気と人の気が連動しているからだろうか。
世界は個人の思念によって作られていることは間違いない事実だと思う。

初演者モントゥーの演奏は、もちろん模範となるものに違いない。
それにしてもこのときの録音は、1950年代のものと比較しても一層激しい。
いかにも指揮者の心の内が投影されているように思われる。

『祭典』を作曲しながら、私が作品のスペクタクル面で思い浮かべていたのは、大きなブロックとしてまとまった人々によって演じられ、些細で余計なものも努力を裏切る複雑さもない、観客に直接的な効果を与える、きわめて単純な一連のリズム的運動だった。ただ一人の女性の踊り手に委ねられていたのは、作品を締めくくる「いけにえの踊り」だけだった。その楽曲の明瞭で明確な音楽も同様に、それに呼応した単純で把握しやすい振付けを必要としていた。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P59

重要なことは、「春の祭典」が本来スペクタクルであるということだ。
それゆえにストラヴィンスキーは「自伝」においても振付けのことは語っても音楽については意識的に語ろうとしていない。

20年も経ったあと、そのスコアを作曲したとき私を活気づけていた気持ちを思い出すのはまったく不可能だと思う。事実や出来事については多少とも正確に思い出せる。だが、むかし抱いていた気持ちを、その後、自分のなかで生じた変化すべての影響のもとで、歪めることなくどうやって再構成できるだろう? 当時の私の気持ちを私がいま解釈するのは、それが他人によって行なわれた場合とまったく同じくらい不正確で恣意的なものになる可能性がある。
~同上書P60

文字では真意は伝わりにくいもの。
まして時間を経てのそれは一層歪みが生じ、本意を伝えきれないのだと巨匠は知っていた。
その意味で、時代を共にし、初演の棒まで執ったモントゥーの音楽作りは、スペクタクルを意識したものになっていて、劇的で、激しい。

・ダンディ:歌劇「フェルヴァル」作品40から第1幕への序奏(1945.1.27録音)
・リムスキー=コルサコフ:歌劇「サトコ」作品5より(1945.3.3録音)
・ブラームス:アルト・ラプソディ作品53(1945.3.3録音)
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」(1945.3.10録音)
マリアン・アンダースン(アルト)
サンフランシスコ市男声合唱団
ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団

この実存感!!
古い録音でありながら、時間と空間を超えて聴く者に迫る音のドラマはこれが随一かも。

ニジンスキーが蘇る。
おそらくモントゥーの意識の中では初演の際の光景が明確に映っていたのだと思われる。
スキャンダルを含めた歴史的情景が見事に刻まれるドキュメント。
セッション録音でありながらあまりの迫力に、「春の祭典」の素晴らしさを思う。

比類なく流動的で、すべて淡い色合いで、柔軟に波打つ、ドビュッシーの交響詩は、造形的な演技の精密さ、厳密さ、角張った懐古趣味とは奇妙に対照的だった。全体として、数日後、《春の祭典》において明らかとなった、あの不可欠な統一がそこには欠けていた。
後者において、音楽家と舞踊家との親密な協力関係は明白だった。音響の塊と密集した踊り手グループによる記念碑的構成、リズムや動作の執拗さ、響きやポーズの悲劇的な激しさ、造形的な線や音楽的な線の作る外観の容赦なさ、それらの濃縮された要素すべてが冒頭から観衆の心を捉え、休む暇なく、輝かしくも恐ろしい領域へと連れ去り、突如、観衆は、宗教的な不安に喘ぎつつ、そこから突き落とされるのだった。

モーリス・ラヴェル「ニジンスキー、バレエの巨匠」(1914)
モーリス・ラヴェル/笠羽映子編訳「ラヴェル著述選集」(法政大学出版局)P132

録音されたのは、何と東京大空襲の日。

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