愛が私に語りかけるもの

mahler_3_bernstein.jpg第6楽章「愛が私に語りかけるもの」を聴くといつも心の震えが止まらなくなる。若きマーラーがその音楽に託したことは何なのか?セミナーの中で僕がお伝えすることの本質は「許し」である。人は人を恨み、憎む。その因縁が永遠に続き、輪廻へと回帰する。要は許せば楽になれるのだが、許すことが容易ではない。そして、許せないから心身が不安定になるのである。

では、「許す」にはどうすればいいのか?等身大の相手を知ること、そして理解すること、さらに受容することだ。それには「人間」そのものについての体感的データが必須になる。人と直接に出逢う経験をより多く持っていないと、人は人を理解することができない。いかに「人間」についてのデータベースを確保するか。それは、多くの人に出逢い、そしてより深いレベルでのコミュニケーションをとることを常に心がけることだろう。

右脳的な深いレベルのコミュニケーションを心理学的専門用語では「親和」という。最近になって僕はまた気づいた。「親和」とは親しい和であると同時に「親」との「和」でもあるのだ。ここのところセミナーや講演会では、目の前に起こる人間関係のもつれは、とどのつまりは親との関係に起因するということ、あるいは、もっと手厳しく表現すると、仕事のできる人・できない人の境界線は「両親との関係がうまくいっているかどうか」によるのではないかという話をさせていただく。あくまで経験値からくる仮説、感覚的なものに過ぎないがどうやら「そんな感じ」がするのだ。

切っても切れないものが一親等である両親とのつながりである。人間がもつ最初の「関係性」であり、かつ最も長い「関係性」であるその関係を見つめ直すこと、そしてもしも許せないなら許せるようになるまで交流を図ることが各々に課された課題なのではないかと(とはいえ、傷の舐め合いになってはいけない。親離れ・子離れが大前提でだ)。

マーラー:交響曲第3番ニ短調
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
ニューヨーク・コラール・アーティスツ、ブルックリン少年合唱団
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

bejart_the_art_of_the_20th_century_ballet.jpg愛とは永遠であること。そして永遠の愛というものを作曲者自身は死ぬまで追い求めていた。しかし、いわゆるこの世知辛い人間世界の中で普遍的な愛など存在するのだろうか?エゴがあり、不安があり、不完全であるからまた人間は人間のままで存在し得るのである。マーラーの投げかけた問いかけへのアンチ・テーゼなのかバーンスタインのマーラー演奏は極めて人間的である。永遠の愛にはなり得ない、つまり永遠に許すことはできないのだと訴えかけるような人間臭さがかえって魅力的なのである。

そう、無理をしなくて良い。あるがままに自然体で互いが受容できるような「関係性」を構築できる相手を探せばいいだけの話だ。

ちなみに、モーリス・ベジャールによる、ジョルジュ・ドンとショナ・ミルクが踊る「愛が私に語りかけるもの」は人間の底知れない情念と宇宙の果てしない拡がりが表現された名振付であり、名舞踊だと僕は思う。必見!


7 COMMENTS

Pumi

御無沙汰しております。時間が取れたので久々に投稿させて頂きます。
>では、「許す」にはどうすればいいのか?等身大の相手を知ること、そして理解すること、さらに受容することだ。それには「人間」そのものについての体感的データが必須になる。人と直接に出逢う経験をより多く持っていないと、人は人を理解することができない。いかに「人間」についてのデータベースを確保するか。それは、多くの人に出逢い、そしてより深いレベルでのコミュニケーションをとることを常に心がけることだろう。
僕もたまに寛容さやコミュニケーションにおける相手に対する理解度の深さについて考えることがあるんですが結局行き着く先は毎回同じなんです。それが岡本さんがおっしゃる通り、多くの人と出逢い、多くの価値観を学び、だからこそ人間は寛容になり相手を受容できるようになるということなんです。僕の考えは実にシンプルで思いつき易いことだとは分かってるんですがこれ以外に人が寛容になれる方法って無いと思うんですよね。年齢を取るからこそ分かるというもんでもないとは思いますがまだ若すぎるのでこの辺の話題には理解が欠けてます。。。
僕はマーラーの中での最高傑作は実は楽章別で取り上げると3番6楽章だと思ってます。この楽章はあの精神分裂的マーラーが自分を理性的に抑えて実に内省的に書き上げられたものだと思うんです。基本的にマーラーは交響曲を書く上で自分を抑えられなくなってオーケストレーションが無意味に拡張してしまってる部分が多過ぎると僕は思います。そういう意味でも個人的にはアバドかMTTのマラ3が好みです。

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雅之

おはようございます。
>愛とは永遠であること。そして永遠の愛というものを作曲者自身は死ぬまで追い求めていた。しかし、いわゆるこの世知辛い人間世界の中で普遍的な愛など存在するのだろうか?
バーンスタインは、どのような思いで「ウエスト・サイド・ストーリー」を書いたのでしょうね? また、ベジャールのバレエの映像を観ると、精神的な愛と肉体的な愛をの関係性について、いろいろ考えさせられます。愛は深いです。
話は飛躍しますが、私はどうも世間の人と時間に対する感覚が違うようです。一青窈さんの歌「ハナミズキ」に、「君と好きな人が 百年続きますように」という歌詞が出てきますが、私は「え?永遠の愛って、たった百年?」と感じてしまうのですが?
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1908717
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND18138/index.html
明日の大増税より今日の定額給付金を喜ぶ、一般の人の「朝三暮四」的な感覚も全然理解できません。
そう、「永遠の愛」など幻想で、愛は「刹那的の連続」というのが真実の姿なのかも?
私も大好きな「夏の交響曲」マーラーの「第3」、Pumiさんも私も一昨年、マーツァル&チェコ・フィルの来日公演を聴いているんですよね。でも、私もMTTのほうが好きかな? サンフランシスコSOとの一連のマーラーのSACDの演奏の完成度の高さは、空前絶後の恐るべき水準で、これを聴くと、アバドもショルティも、「遠い過去の人」です。

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岡本 浩和

>Pumi君
おはよう。
人間に対するデータベースを増やすと同時に、コミュニケーションのスキルもしっかりと体得することが大事ね。多くの人に会ってどういうコミュニケーションをしているのか?ということが重要です。
>この楽章はあの精神分裂的マーラーが自分を理性的に抑えて実に内省的に書き上げられたものだと思うんです。
なるほど、さすがPumi君!アバドのマーラーは基本的に僕も好きです。MTTのは未聴だけど、雅之さんも大絶賛されているのでこれは聴かねばと思っています。ありがとう。

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岡本 浩和

>雅之様
>「刹那的の連続」というのが真実の姿
おっしゃるとおりですね。神でも仏でもない以上、人間世界において「永遠の愛」なんてありえないかもしれません。もともと一つだったものが二つに分かれて、それゆえ喜怒哀楽やまた学びがあるというのがこの世界なんだと思います。
ところで、山岸涼子氏の「日出処の天子」は読まれました?
http://www.amazon.co.jp/dp/459288051X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1242174379&sr=8-1
愛の様々な形について描かれた面白いマンガです。最終巻の次の件が意味深いです・・・。ちょっと長いですが・・・。
毛人に求愛した厩戸王子が、二人で(肉体的にも)一体になれば全てを支配できる力をもてるということを言います。それに対し・・・
毛人:王子、わかりました、なぜあなたとわたしが同じ男としてこの世に生まれたかが。それは、わたしとあなたはこの世で決して一つになってはならぬ・・・ということなのです。今あなたがおっしゃったことが本当ならば、それはもはや人間としての領域でないではありませんか。人間を超えた何か・・・それが神なのか仏かはわからない。が・・・未熟な完成しきるということのない、人間という器には持ってはならない「力」なのではありませんか?人の世に生れ落ちたからには、その「力」をふるってはならぬという証拠なのです。ゆえにあなたとわたしは二つに引き裂かれた・・・。あなたの元は一つであろうという理論でゆくのならば・・・ですよ。
厩戸:違う!人間になぜそのような限界を強いるのだ。我々人間にはまだまだ計り知れぬ能力があるはずだ!それが神の領域であるはずがない。
毛人:人間の能力を決めつけているわけではありません。しかし王子、先程あなたがおっしゃったわたしと二人で使える「力」とは、何か・・・そのうまくは言えぬのですが、何か一足飛びに飛び越えた大きすぎる「力」なのではありませんか。わたしにはその「力」を駆使したいなどという気持ちは微塵もありませんよ。
厩戸:その「力」を駆使したくてそなたが必要だと言っているのではない。二人一緒になるのが自然だということが言いたくて、わたしは・・・」
などなど、意味深いやりとりが随所随所にあらわれます。厩戸は超常的な能力を持った男ですが、愛については刹那的な人間として描かれています。
MTTのマーラー、これは聴かねば。

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kisara

久しぶりのkisara です。最近ペンネームをkisaraに変えたい気分です。更に生きるで生更
ところで許しのテーマ、なんだか私のことのように読みました。
ずと~んと落ちた感じの説得力のある文章でした。ぜひこのようなブログをメルマガ等々でセミナー関係者に流してくれれば嬉しいです。
岡ちゃんもセミナーを受けた生徒(たとえば私)を題材に何か思いついたり学んだりされているんですね。
まさに親和そうなんですよ!
一番身近にいる人を大切にするような生き方をするのが幸せの近道なんだなと感じました。一番身近なのは世界のすべての人にとって共通の母!なんですね。これは真理でしょうか。
母との関係をもっともっと具体化してプログラム化するというか何かそういう切り口でできたら素晴らしいでしょう。
つい先日、母の日でそう感じることができました。
自分と精神的にも肉体的にも一番のつながりのある人なんですよね
どうしてそういう当たり前のことに気付けなかったのか・・・当たり前のことを軽視されすぎているような感じが今の社会ではいたします。
いずれにしても母に対して許しはかなり進みました。
もう少し深く深くやってみようと思っています!
岡ちゃん
写真変えたんですね。素晴らしい写真。

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岡本 浩和

>kisaraさん
更に生きるで生更、いい名前です。
>母との関係をもっともっと具体化してプログラム化するというか何かそういう切り口でできたら素晴らしいでしょう。
それは名案。ちょっと考えてみるよ。
>いずれにしても母に対して許しはかなり進みました。
もう少し深く深くやってみようと思っています!
それはよかった!ついでにひとつアドバイスしておくと、本文にも書きましたが「あくまでお互い自立して」という前提ね。がんばって!
>写真変えたんですね。素晴らしい写真。
ありがとう。写真映りが悪いって言われてるんだけどね(笑)。

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アレグロ・コン・ブリオ~第3章 » Blog Archive » 人魚姫

[…] マーラーがアルマ縁の第5交響曲初演の棒をとったのが1904年10月18日(ケルンにて)、そして翌19日にはアムステルダムでコンセルトヘボウを相手に第4交響曲を演奏(同日メンゲルベルクも棒を振り、一晩で2回演奏されたらしい)。12月14日には第3交響曲をウィーンで初演、翌年1月29日には、管弦楽伴奏による「亡き子をしのぶ歌」、「リュッケルトの詩による4つの歌曲」が初演される。作曲家としても指揮者としても超多忙な日々を送っていたマーラーの全盛期(1905年11月9日にはライプツィヒで例のピアノ・ロールを収録する)。 […]

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