対話

beethoven_9_furtwangler_1942.jpg先日、企業研修業を生業にする友人と話をしていて、やはりと言うか、企業の中での「対話」の重要性に気づかされた。「議論」ではなく「対話」である。知る人ぞ知る「コミュニケーション論」の名著、デヴィッド・ボーム著「ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ」(英治出版)を読むとそのあたりのことがよく理解できる。例えば、数百人という新入社員を30人ごとにクラス分けし、クラスそれぞれにばらつきのない研修を提供しようとすると、スタッフの動きや研修そのものの進行などある程度マニュアル化せざるを得ない。もちろん、マニュアル化することである一定の質は保たれ、そこそこに納得感のある研修は提供できる。しかし一方、マニュアルに完全に頼ってしまうことで、咄嗟の出来事に臨機応変に対応できなくなるスタッフが増え、結果的に研修の質だけでなく、企業の生産活動そのものにも悪影響を与えてしまうことになりかねないこともよくわかった。そこには、組織の中での「対話」の重要性が見え隠れする。

結局のところ、企業活動において、本当に必要な知識が「現場の智恵」(専門的にはその智恵を「暗黙知」とか「実践知」という)として組織内に流通しているかどうかが鍵なのである。そう、それは現場での様々なやり取りの中で先輩から後輩(あるいは同僚同士で)に自ずと伝わる「感覚」のようなものだろうか。例えば人件費削減のために一見不要だと思われる人員のカットを断行することは短期的経営戦略としては正しい判断だろうが、「現場の智恵」を伝える手段までカットしてしまうことになると将来的にはその判断が「正しかった」とはいえなくなることもままある。何もかも合理性だけを優先して、必要な「無駄」までカットしてしまうことで、最終的には「問題」として残ってしまうのだ。仕事ではない単なる「おしゃべり(コミュニケーション)」に見える「無駄」の中に「現場の智恵」を伝える「場」があるのである。

「対話」には、直接言葉で語られない雰囲気や感情の動きを捉えることができる要素がある。それは、僕がセミナーで常々お伝えする「親和」のコミュニケーションに近い。組織内の縦横いずれのラインにおいても、目に見える知識、そして目に見えない知識までもコミュニケーションを通じて共有する、すなわち分かち合うことが組織活性化の大きなポイントなのだろう(これは企業に限らず家庭という組織においても同じことだと思う)。

ところで、中野雄著「丸山眞男 音楽の対話」(文春新書)には、戦後日本を代表する思想家丸山眞男がフルトヴェングラーを終生愛してやまなかったことが大変面白く綴られており、読んでいて楽しくなる。中には、彼にとって生涯最大の痛恨事がフルトヴェングラーの実演を聴き得なかったことだということも記されている。若き日の丸山がヨーロッパに行きたい理由の9割はフルトヴェングラーの第9を生で聴くという願望だったらしい。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125
ティラ・ブリーム(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(メゾソプラノ)
ペーター・アンダース(テノール)
ルドルフ・ヴァッケ(バス)
ブルーノ・キッテル合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1942Live)

いわずと知れたベルリン・フィルとの戦時中録音!しかもオーパス蔵による復刻盤!
僕がフルトヴェングラーの演奏に初めて触れたのは(もちろんアナログレコードによって)、没後25年を経た頃であったから、彼と同時代を生き、たとえ音盤といえども彼の演奏を愛好していた音楽通が巨匠の訃報に触れたときの率直な気持ちはわからない。それでも、以降フルトヴェングラーの音盤をさまざま聴くにつれ、圧倒的に彼の創る音楽の虜になっていき、あと数十年早く、しかもヨーロッパに生まれ(そうなるとあの悲惨な第二次大戦まで体験することになるのだが)、彼の実演を聴くことができていたら・・・という「空想」によく耽ったものだった。今でも物故指揮者の中で実演を聴きたい筆頭の音楽家である。

「1954年11月30日、ベルリンの大学ホールでピアニスト、フリードリヒ・グルダのベートーヴェン・アーベントがあった-(中略)。グルダは舞台の前端に進み出て、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが数時間前に亡くなった、この大音楽家を偲んで変イ長調ソナタから葬送行進曲を弾く、と言った。『亡くなった』という語が発せられた瞬間、聴衆の間に一つの叫びがあがった。吐息のようにかすかではあったが、とり返しのつかない損失を突然意識させられたことによって誘い出された、深い抑えることのできない驚愕の声だった。この指揮者の死についてその後さまざまのことが言われ、書かれたが、あの人々のおのずから生まれた言葉にならぬ驚きの声音ほどにこの事件の意味をあきらかに告げるものはなかった。ホール中の人が同じことを感じた-自分の生活から一つの価値が失われて、二度と回復できない、音楽の世界の門が閉じられてしまった」~「フルトヴェングラーを讃えて」ゴットフリート・クラウス編(音楽之友社)


4 COMMENTS

雅之

こんばんは。
唐突ですが、私は将棋四段、囲碁ニ段です。
例えば将棋に強くなろうと思ったら、定跡だけ覚えていてもダメです。
先手「7六歩」の後、後手「3四歩」や「8四歩」なら基本定跡ですが、「5ニ飛」や「1四歩」かもしれませんし、もっと突飛な手を指してくるかもしれません。将棋は定跡を覚えると、ほとんどの人が一旦弱くなります。咄嗟の出来事に臨機応変に対応する実戦経験が足りないからです。棋譜は相手との「対話」によってはじめて成り立つ「芸術」なのです。
私の愚息は中学のサッカー部で副キャプテンですが、サッカーも相手の動きやフォーメーションに臨機応変に対応しなければならないスポーツです。サッカーも野球も、相手選手や相手チームとの「対話」のスポーツです。息子は、その「対話」が楽しくて仕方がないようですが、サッカーによって日々人間力を身につけているようです。
フルトヴェングラー対ベルリン・フィル。これも「振ると面食らう」名指揮者対世界一を争う高機能オケとの「対話」ですね。相手の意外な行動に対応する面白さ・・・、「対話」は楽しいです。
また、「対話」に「無駄」は付き物です。「無駄」から新たなアイデアが生まれるんだと思います。丸山眞男と中野雄との知識人対話も面白いですけど、シューマンを理解していない人同士の「対話」じゃあちょっと・・・ですけど、そういう知識人も「意外」で決して「無駄」ではなく、示唆に富んでいます。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
それにしても雅之さんは多才ですね。畏れ入ります。
>将棋は定跡を覚えると、ほとんどの人が一旦弱くなります。咄嗟の出来事に臨機応変に対応する実戦経験が足りないからです。棋譜は相手との「対話」によってはじめて成り立つ「芸術」なのです。
なるほど奥深いのですね。
>サッカーも野球も、相手選手や相手チームとの「対話」のスポーツです。
チームワークを要するスポーツも「対話」が重要なんですよね。よくわかります。
>「対話」に「無駄」は付き物です。「無駄」から新たなアイデアが生まれるんだと思います。
まさに!

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もっち

必要な「無駄」に目をやれる人がほとんどいないきがします。
相手をかえようとせずにどことなく気付かせるということを練習しています。
プライドが高い人がおおいのでなかなか難しいです。

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岡本 浩和

>もっち
お疲れ様。
そういう時こそ「対話」が必要だね。がんばれ!

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