幸福とは?

mozart_41_schuricht.jpgウェイン・ベーカー著「ソーシャル・キャピタル~人と組織の間にある『見えざる資産』を活用する」(ダイヤモンド社)を読んでいて、「我が意を射たり」という記述が頻出し、なるほど友人が「今僕が考え、目指そうとしていること」に必ずや手助けになるとこの本を薦めてくれたことがよく理解できる。ただし、これほどの意義あるビジネス書にもかかわらず、絶版になっていることが解せないし、残念でならない。
ビジネスという枠を超えて、豊かな人生ということを考える時、ソーシャル・キャピタル(要するに人脈力)が直接的につながっているという緻密な研究成果が残されている。例えば、「幸福」ということについて。ジークムント・フロイトは幸福の秘訣を尋ねられた時、「仕事と愛である」と答えた。シカゴ大学の心理学者ミハリー・チグセントミハイリが25年間に及ぶ幸福に関する心理学的調査に基づき、重要な二つの要素を発見した(まさにフロイトの見解を立証している)。それは、意味のある仕事をもっているかどうかということと、周りの人との人間関係の質であるということ。心理学的にいうと、社会的なネットワークを発展させていくことで、幸福、成長、満足、そして意義深い人生を手に入れることができる。そしてソーシャル・キャピタルを構築するその大きな目的は、他の人たちとの関係を深め、世界へ貢献することである。そうすれば、必ず幸福を適することができるのだという。また、優れたネットワークの持ち主は、精神的にも肉体的にも健康だといわれ、さらに最も驚くべき事実は、優れたネットワークの構築によって人間の寿命が延びるということまで報告されている。

ここのところ会う人に「人間は本質的には変らない。変るのは『関係の質』である」ということを話させていただく。そして、皆一様に納得していただける。
「人間力」=「関係構築力」(それも深いレベルでつながった関係をいかに構築するか)という構図はあながち間違いではなさそうだ。

モーツァルト:
交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216
交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
ウィリー・ボスコフスキー(ヴァイオリン)
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1960.8.14Live)

モーツァルト晩年の2つの傑作交響曲の間に若き日の颯爽たる名曲を挟んだ気高きプログラム。1960年、ザルツブルク音楽祭での実況録音。どの時代のどの時期もモーツァルトはモーツァルトで基本的に何ら変らない。たとえ幸福の絶頂にいる時であろうと、貧困ままならない最悪の状況にいる時であろうと、状態そのものがこの天才作曲家の創造力、そして人間力には全く影響を及ぼさないことがよくわかる(もちろん晩年の作品ほど常人には信じられない高みに達してはいるが)。ひょっとするとモーツァルトは孤独ではなかったのかもしれないな・・・。死後200年以上の歳月を経、古今東西を問わず自分の作品がこれほど世界的に受容されているとは生前想像すらしなかったろうが、その意味では最高に幸せな人であると思う。シューリヒトの指揮も素晴らしい。ライブならではの推進力、切れ味抜群のモーツァルト。実演で聴いたらさぞかし卒倒モノだったろう・・・。

ちょっと前に発売された「大指揮者カール・シューリヒト~生涯と芸術」ミシェル・シェヴィ著(アルファベータ)を購入した。「フルトヴェングラーが最も敬愛した友人、ウィーン・フィルに最も愛された指揮者」と帯には書かれている。彼のこういうまとまった評伝は初出版だろうから読むのが楽しみだ。


15 COMMENTS

雅之

こんばんは。
シューリヒト、ベーム、クーベリック、テンシュテット、ヴァント・・・・、昔は実演で聴いたら卒倒モノの「ジュピター」を振れる指揮者が多かったですね。ライヴ録音でもよく伝わります。やたらに今を否定したくはありませんが、ここ10年ほど、実演の「プラハ」や「ジュピター」で、感動、感心したことは一度もありません。
ハイティンク、アバド、ブーレーズ、ムーティ、小澤、マゼール、レヴァイン、バレンボイム、ラトル・・・ああ、想像するだけで頭が痛くなった・・・。反復記号の順守やピリオド奏法もつまらなくしている原因ですね。また、アーノンクールやブリュッヘンの指揮する演奏を聴いて、モーツァルトとはこういうものだと思っている人と、私は音楽を語り合いたくはないです(これは良い悪いではなく趣味の問題で、たぶん平行線のままだと思いますので)。
「大指揮者カール・シューリヒト~生涯と芸術」は、ぜひ読んでみたいです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>反復記号の順守やピリオド奏法もつまらなくしている原因ですね。
そうかもしれませんね。ひょっとするとゲルギエフやプレトニョフ、あるいはツィマーマンが指揮者に転向して「ジュピター」をやったら感動モノの演奏になるかもしれません。

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kisara

最近の岡ちゃんの気づきはシャープですね。
ずしんずしんと直球がミットにはまります!
最近の人脈の広がりは、ただ端に人にあって名刺交換をする感じではなくて逢いたかった!という感覚なのです。
これはまさしく自分が正直になりこの世でやるべき使命を感じてからおこってくる現象でした。
人脈は増やそうと思ってできるものではないんですね。
(意外と多くのひとがそうだと思っていると思いますが・・)
人脈が広がった先に政治の世界があると確信しています。
日々人間力向上ですね。

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岡本 浩和

>kisaraさん
コメントありがとう。
>人脈は増やそうと思ってできるものではないんですね。
真の人脈というのは必然かもしれないね。とはいえ、人脈を拡げるための動きはしないと何も始まらないけど・・・。
そう、日々人間力向上です。

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Fumi

御無沙汰しております。
この間、ドイツでブロムシュテット/バイエルン放送響でモツ34番を聴いたんですが素晴らしい演奏でした。元々ブロムシュテットのモツは好きだったのですがどうも即興性に欠ける部分があり、そこが気に食わなかったんですが年齢を取って良い意味で音楽に余裕が出来、遊び心が出てきて、モツ独特の軽快感もあり非常に充実した演奏でした。
僕はワルターのモツはあまり好みではありませんが(正直NYフィルとの演奏の方が好きです)確かにクーベリックのジュピターは心から感動しました。これほどのジュピターを演奏できる指揮者は現代では確かにいないかも知れません。しかし、僕はピリオドに関してはあくまで公平な立場で見て頂きたく思います。モダン演奏で酷い演奏もあればピリオドで名演奏もあると思うんです。以下のアーノンクールの演奏は正直僕はワルターや昔の往年の指揮者が無駄にモツを過大評価して空間的に巨大な演奏を目指し油ギトギトでねばちっこく、かったるくなってしまった演奏よりよほど説得力があり感動しました。どうかピリオドだからダメと先入観を持たずに一度、二度と心を無にして聴いてみて下さい。特にアーノンクール、ブリュッヘン、ノリントン、ミンコフスキ、モツならハーディングも良いです。この辺りのピリオド指揮者は自分が正しいみたいな変なアカデミズムに陥ってなく、あくまでピリオドを表現の一つとして自分のものにしておりラトルなどの表面的な技術偏重指揮者とは一線を画しています。よく耳を澄まして聴いてみると音色の移ろいに驚くと思います。モダン楽器より余程魅力的な音色を出す時だってありますよ。実演で聴いたアーノンクール/ウィーンコンツェントゥスムジクスのモツのレクイエムとヘンデルのメサイアも超名演でした。僕はあくまでピリオドが流行してきた頃のリスナーなのでピリオドに関してあまり差別的考えが無いのかも知れません(といってもロマン派のピリオドはやはり否定的ですが)。しかし、逆に岡本さんや雅之さんの時代にセンセーショナルを巻き起こしたグールドのゴールドベルクやバーンスタインのマーラーに僕は全く感動出来ないんです。いわゆる人間は構造主義の中に生きていて自分では知らないうちに自分の中で時代に即した価値観が出来、他時代での流行に対して疑問を持つようになるんだと思うんです。この殻を破るのは実に難しいとは思うんですが芸術を先入観で見るのは危険なことだと思います。どうかこのブログの中でピリオドにも光を。。。

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岡本 浩和

>Pumi君
おはよう。いつもながらの貴重なご意見ありがとう。
音楽の場合も先入観をもって聴いてしまうと間違った判断をしてしまうというのはおっしゃるとおりだね。ただ一方で雅之さんがおっしゃる「趣味の問題」というのもよくわかります。
>グールドのゴールドベルクやバーンスタインのマーラーに僕は全く感動出来ないんです。
僕からいわせれば「何ーー?!」ですが、これも趣味の問題だからね。世の中完全無欠の絶対的なものは存在し得ないので、それはそれで議論したところでまさに「平行線」だよね。その意味で、Pumi君の言う「いわゆる人間は構造主義の中に生きていて自分では知らないうちに自分の中で時代に即した価値観が出来、他時代での流行に対して疑問を持つようになる」というのは正しい見解だと思います。
>どうかこのブログの中でピリオドにも光を。。。
了解しました(笑)。

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雅之

横レス失礼します。
Pumi様
こちらも御無沙汰しています。
>僕はワルターや昔の往年の指揮者が無駄にモツを過大評価して空間的に巨大な演奏を目指し油ギトギトでねばちっこく、かったるくなってしまった演奏よりよほど説得力があり感動しました。
昔の巨匠の演奏を録音だけで判断するのは危険だと思いますよ。巨匠演奏家の音楽なんて、Pumiさんも経験がおありの様に、マイクに入らない部分がいっぱいあるはずですから・・・。
現在主流のピリオド奏法については持論がありますが、ここでは省略します。
>いわゆる人間は構造主義の中に生きていて自分では知らないうちに自分の中で時代に即した価値観が出来、他時代での流行に対して疑問を持つようになる
おっしゃるとおりです。皆が同じ価値観だったらファッショです。各々の趣味は違っていて当然です。
昨年の4月16日、私は岡本さんのブログに、こんなコメントを書込みました。
・・・・・・ただ、一般論として人は、「育ってきた環境や体験、教育によってインプットされてしまった『概念』がブロックと化している・・・」というのは、事実ですね。私は、それこそが個人の趣味嗜好を形成し、個性を形作るものであり、それは仕方のないことだと思っています(勿論努力によって、そのギャップをある程度埋めることは可能ですが・・・)。
しかし、雪を全く見たことの無い人、氷点下を全く経験したことの無い地方の人に、シベリウスが本当に理解出来るか?イラクのイスラム教原理主義派が、バッハの「マタイ受難曲」を聴いて感動するということが有り得るか?日本人がドイツ人と全く同じように、ブルックナーのホルンの音色を、狩りのイメージとして捉えているか?そんなことを考えると、宇野功芳氏が評論文でよく使う、「人類の至宝」って何?と、思ってしまいます。
少なくとも、「全人類にとっての至宝の芸術」など、絶対に有り得ないと思います。・・・・・・
http://opus-3.net/blog/archives/2008/04/genesis/#comments

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは、再度のご教示ありがとうございます。本当にその通りだと思います。1年以上も前の記事なのですっかり忘れていましたが・・・。
現在主流のピリオド奏法についての持論、ぜひお聞かせください。

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ふみ

毎回、雅之さんのコメントからは新しい発見や興味深いものなど多くのものを得ることが出来ます。是非、雅之さんのピリオドに対する持論をお聞かせ願います。また自分のピリオドに対する見方が増えるかも知れません。宜しくお願い致します!
僕も雅之さんのおっしゃる通りだと思います。「人類の至宝」という言葉を素晴らしい演奏を表すエクスプレッションの一つとして使うことはあってもその言葉が真の意味の「人類の至宝」ということを指すとは僕も思いません。色々とまたお話したい事は沢山あるのですが授業なので、では失礼いたします!

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雅之

岡本様
Pumi(ふみ)様
ピリオド奏法に対する持論ですが、誤解を恐れず簡単にご説明を試みましょう。
私の専門の弦楽器の話を中心に・・・。
①ポルタメントについて
お二人は、本物のヴァイオリンを遊びで弾いた経験をお持ちでしょうか?
ヴァイオリンは左手の指で弦を押さえて音程を取りますが、ピアノに出来ない特技はなんでしょう?そう、人間の声のような音程のずり上げ、ずり下げが可能だということです。擦弦楽器を弾くと、人間は本能的にこれをやりたくなります。
弓で弾く擦弦楽器はヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、コントラバスの他に何が有りますか?そう、多くの民族楽器があります(次のサイトを参照のこと)。
http://www.co-q.com/jiten_rekishi_frame.htm
胡弓など多くの擦弦による民族楽器は、ごく自然にポルタメント奏法を使用し演奏しています。ヴァイオリンのポルタメントが20世紀になってから安手の音楽で使用されるようになったというのは、たまたま文献が無いからそう専門家が決めつけたに過ぎないと思います。擦弦楽器を弾いて音程のずり上げ、ずり下げをやって音楽の表情を付けたくなるのは、人間の本能です。なおヴィブラートについても、似たような持論を持っています。決して昔はなかった奏法ではないと思います。
②純正音律について
現在のピリオド奏法は平均律的な音程を採り過ぎています。古楽は絶対に平均律音程を前提に書かれてはいません。これは管楽器でもそうです。
このことを考えるために有効な、ニケ&コンセール・スピリチュエルの「水上の音楽」他のSACDの、「東京エムプラス」の説明から引用します。
・・・・・・1960年代から始まった古楽の復興の過程で、金管楽器はバロック時代のオリジナルの形態と、モダン楽器の機能を折衷したものが用いられるようになってしまいました。ホルンもトランペットもモダン楽器と同じようなマウスピースで吹ける上に、トランペットに至っては管体に指穴を設けて自然倍音列の音程を矯正するのが一般的。これによって吹奏は今日的尺度での確実性を増したかもしれませんが、楽器本来の性格はかなり歪められてしまったといっても過言ではないでしょう。
 しかし、ここ数年の楽器や奏法の研究により、オリジナルのデザインのマウスピースや管体の設計をきちんと踏まえれば、指穴を設けたり、後の時代の技法であるハンド・ストップを用いたりしなくても演奏は十分に可能だという道が開けつつあります。
 実際、ここでピエール=イヴ・マドゥフ率いるホルン・セクションの9人は、自然倍音列によって得られる音程を「ハンド・ストップ」によって(平均律的に)修正せずに演奏していますし、ジャン=フランソワ・マドゥフが率いるトランペット・セクションの9人もナチュラル・トランペットを手にして、ミーン・トーン(三度が純正な調律法)の和音を響かせているのです。
 これら金管楽器はすべて、前述のオリジナル性に配慮して特注されたもので、その意味でも、ここで聴ける響きが、バロック時代の金管楽器が有していたオーセンティックなサウンドに関する新たな指標ともいうべきものであることは明らかです。
 これら金管楽器と完全に等しい音律で設計されたオーボエを使用するため、オリヴィエ・コットゥが新たに制作した楽器を24人のオーボエ奏者が手にしています。・・・・・・
このSACDを聴くと、平均律的絶対音感を持っている人なら、間違いなく吐き気をもよおすでしょう。しかし平均律的絶対音感を持っている人のほうが正しくないです。こちらの演奏の方が、アーノンクールやブリュッヘンより、当時の現実と美的価値観に近いのは間違いないでしょう。ただしこの演奏も発展途上の域を出ていないとは思います。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2761964
③ヴァイオリン奏法の系譜の無視。
弦楽器には師から弟子への奏法の系譜がいくつもあるはずですが、現在のピリオド奏法は、それらを無視、軽視し過ぎていると同時に、あまりにも画一的過ぎます。これではベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲の個性的な名演など、あまり期待できないでしょう。
またゲヴァントハウス管弦楽団などの、以前は伝統の響きといわれていた奏法との関係は?恐竜の化石の話ではありませんが、進化の途中経過がよくわかりません。
仕事前に、バーッと思いつくことを書いてみました。推敲していませんので、誤字、脱字があればご容赦を・・・。

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ふみ

雅之様
詳細なご回答大変ありがとうございます。ご紹介されたCDは色々と考える余地はありそうですね。ただ当時の奏法に近いかどうかだけで判断するとこのCDは正しく画期的な演奏なのでしょうが、その基準だけでは判断出来ないでしょうからね(笑)そんなこと言ったらモダン楽器による演奏なんてモツの時代のとは程遠いものでしょうし(あんな巨大な演奏が楽器の進化から考えても過去に出来るはずがないと思います)。
やはり僕にとってはこの話はどうしても構造主義になってしまいます。確かにポルタメントに関しては人間の本能的部分もあるかも知れませんがあくまで自分たちの時代には既にそれは当然の奏法になっていたわけで過去の人間にそれが果たして出来ただろか、ということに関しては史料的にも少し厳しいかなと感じます。極論ですが、ポルタメントやヴィブラートが美しく聴こえるっていうのもただ現代の価値観であるかも知れません。これは過去にも当てはめられるでしょうか?僕はこれから先の時代、また新しい奏法が開発され同じような議論になるような気がするんです。未来の人間は[これは音色の構造や音楽の世界をより深く追及した結果であり音楽の進化である]なんて言って自分たちの世代は[ただの学者が考え出した人工音楽だ]なんて言ってるかも知れません(笑)僕にとってはピリオドのノンヴィブラートの音色も木の素朴な音色が聴こえてくるようで特にモツの短調の曲などで響くなんとも言えない孤独で切なく哀愁があり、一つの音の中に終りのない果てしない世界が見えたりして美しいと思うんですが。。。やはりおかしいんでしょうかねぇ。。。
これからは雅之さんの意見を参考にピリオドに関して考えていきたいと思います。

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岡本 浩和

>ふみ君
お疲れ様。いやいやおかしくないと思うよ。素晴らしい意見です。いろんな感じ方、考え方があるから人間って面白いのです。音楽の奥深さも然りです。

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雅之

ふみ様
現在主流のピリオド奏法について、私の言いたかったことは、結局モダン楽器による現代奏法と同じく、史実を忠実に反映したものではないということです。誤解を恐れず下世話な言葉で言えば、ピリオド奏法といえども、本物の江戸時代と、テレビの時代劇で描かれる江戸時代
http://hissatsu2009.asahi.co.jp/
くらい違うんだということです。
勿論私も平均律音程に飼い慣らされており、また、ポルタメントをかけない今主流の弦楽器奏法のほうが好きです(前述、シューリヒト、ベーム、クーベリック、テンシュテット、ヴァント指揮のモーツァルトや、シェリングやグリュミオーのバッハの無伴奏など)。しかし作曲当時は違っていたということです。アーノンクール、ブリュッヘン、ノリントン、ミンコフスキ、ハーディングも、その点ではまったく一緒なのです。
>確かにポルタメントに関しては人間の本能的部分もあるかも知れませんがあくまで自分たちの時代には既にそれは当然の奏法になっていたわけで過去の人間にそれが果たして出来ただろか、ということに関しては史料的にも少し厳しいかなと感じます。
史料的に無いから出来なかったと思われるのであれば、それは現代人の思い上がりも甚だしいと、私は思います。擦弦楽器の歴史を、もっとグローバルに見てください。アカデミーの内側にいる人の思考が欠陥だらけなのは、最近、日本史の常識が、ことごとく覆されていることからも明らかです。
ピリオド奏法がお好きなかたには、1920年代から30年代に録音された、クライスラーや、カペーSQや、ウィーン・フィルの演奏を、もっとしっかり聴いていただきたいと思います。ちゃんとポルタメントや純正音律を採用していますよね。それと現代主流の平均律音程のポルタメント無しのピリオド奏法と、いつ、どこでどう繋ったんですか?
「人間は本質的には変らない。変るのは『関係の質』である」
このごろ私は痛感するのは、趣味でも何でも、「人間の価値観の骨格は20代で完成する」ということを、何人も逃れられないということです。だから他人の価値観を認め合うことは、『関係の質』を高めるのに、とても大切な要件だと思います。
イギリス滞在中のふみさんはご存じないと思いますが、5月21日付の朝日新聞に、我々中年にとってはショッキングな、こんな記事が載っていました。
真夜中の公園で騒ぐ若者たちを高周波の音で近づかせない実験を、東京都足立区が21日から始める。若者だけに聞こえる「モスキート音」と呼ばれる不快音を夜中から未明にかけて鳴らす。足立区は「無差別に若者を立ち退かせる方法には批判もあると思うが、苦渋の選択だ」という。
 「モスキート音」は、若者しか聞こえないとされる18キロヘルツ前後の高周波発信装置の音。蚊(英語で「モスキート」)のように「キーンキーン」と耳障りな甲高い音がすることから、名付けられた。
 20歳前後をピークに聴力が徐々に低下する「老人性難聴」の症状を利用したもので、中高年には聞こえない。街にたむろする若者を追い払うため、英国の科学者が装置を開発。英国のメーカーが06年に商品化した。
 足立区がこの装置を使って実験するのは、被害が深刻な「北鹿浜公園」。周辺住民から「騒音で眠れない」と苦情が相次ぎ、昨年度は事務所の窓ガラスが割られたり、トイレの便器が壊されたりした。区内約470カ所にある公園の被害額約300万円のうち、この公園の被害が約70万円を占めたという。
 警備員が、トイレットペーパーに火を付けていた若者の集団を目撃。防犯カメラも深夜、カメラを壊そうとする若者の姿をとらえている。
 対応策として装置の導入が浮上し、区公園管理課は半年間議論を重ねた。「若者を排除するような装置を、自治体が率先して導入していいのか」という意見もあったが、「憩いの場のはずの公園が、安眠を奪う迷惑施設になってはいけない」(増田治行課長)と導入を決めた。
 21日から、事務所と公衆トイレがならぶ施設の付近に発信装置をとりつけ、毎日午後11時から翌午前5時まで鳴らすという。(須藤龍也)
実際に人間の聴力は、20代をピークに、どんどん悪くなっていくのは、悲しいけれど、どうも客観的事実のようです。
http://www.tokyomegane.co.jp/hearing_aid/age.html
内田光子も岡本さんも私も、一番耳も記憶力も良かった20代までの体験が、音楽的価値観のベースになっているのだと思います。
今、一番信用できる音楽を聴く耳は、20代前半のふみさんの耳です。岡本さんのブログをきっかけとして、西洋音楽も東洋音楽も、ジャズもロックも、いろいろな価値観の音楽を吸収して、他人の趣味嗜好も出来るだけ理解し、ご自分の社会的なネットワークの発展に、ぜひ役立ててください。
ああ、やっとここで岡本さんのブログ本文の「主題」に到達しました・・・長い「変奏曲」でした(爆)

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