なぜ調性そのものを永久に放棄しなくてはならないのか、私には分からない。なぜいつも調性がなくてはいけないのか、私には分からない。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽」(みすず書房)P139
チャールズ・アイヴズが語ったこの言葉に彼の音楽を理解する大きなヒントがあるように思う。アイヴズの独創性というのは、枠にとらわれることなく真に自由に音楽を生み出そうとした点。
じつはアイヴズの独創性はその風変わりな和音にあるのではなく、アメリカの音の種々雑多な組みあわせにある。ベルクやバルトークと同じように、アイヴズは民俗的な単純性と不協和音のあいだを行ったり来たりした。
~同上書P138-139
土着性を重視した彼には、いわゆる西洋古典音楽の発明品に過ぎない調性にこだわることこそが不毛に映ったのかも。「枠を超えろ」と彼は言う。すなわちそれは、概念からの脱皮ということだ。そうすれば差別も何もなくなるというのである。
アフリカ人の魂にエックス線を当てたら、アメリカ人の魂とそっくり同じに見える。
~同上書P140
かつてアイヴズが断言した言葉である。彼の音楽が何ものにも縛られず、奔放でありながら極めて精緻な計算のもとに作られた見事に全脳的なものであることを考えると、真に魂の自由を獲得することがいかに大事なことかと考えさせられる。
2005年9月12日に紀尾井ホールで聴いたマルク=アンドレ・アムランの演奏を思い出した。実に強烈な音響と、その爆音の内側に潜む静かな祈りの心情の対比に感動する僕がいた。アムランは書く。
チャールズ・アイヴズの「コンコード・ソナタ」は30年前から詳しく知っています。その音楽語法はまったく唯一無二のもので、分析を拒んでいます。すべてがほぼ全面的に自由意志で、直観的であるからです。作品全体が高度にインスパイアされた即興演奏のように鳴り響き、選ばれた題材―ニュー・イングランド(米・北東部地方)に住んだ芸術家たち―を賛美します。この自由意志を介して、このソナタは頭よりも心へと語りかけ、極めて有意義なやり方で聞き手のイマジネーションをかきたてます。最終楽章の終わり近くで、フルートと演奏する一節があるのも注目されます。これは選択できるようになっていますが、アイヴズは可能なかぎりフルートの演奏を入れることを切望しました。「ウォールデン湖のほとりでソロー(思想家)はフルートに耳を傾けるのが大好きだった」と、あるときアイヴズは話しています。
~マルク=アンドレ・アムラン2005公演プログラムから抜粋
2004年にアムランがhyperionに録音したアイヴズのソナタは、まさに彼自身が言うように「全面的に自由意志で、直観」に溢れる演奏。
・アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番:マサチューセッツ州コンコード、1840-60年
・バーバー:ピアノ・ソナタ作品26
マルク=アンドレ・アムラン(ピアノ)
ジェイム・マーティン(フルート)(2004.4.5&6録音)
第3楽章「オルコット家」の類稀な美しさ!冒頭、賛美歌の静かな旋律がベートーヴェンの第5交響曲の主題に触発された「人間信頼の旋律」と呼ばれるメロディと拮抗し、見事な音楽と化すシーンはキース・ジャレットのソロ演奏を聴いているかの如くの錯覚を覚えさせるほどの即興性。ここには深い祈りの念がある。
小さな古いスピネット・ピアノが置かれていて、ベスは古いスコットランドの歌を弾き、第5交響曲を探り弾きした。・・・「人間信頼の旋律」の影響力は、いまだにコンコードの空の下に漂っている。
~「試論」より抜粋
続く第4楽章「ソロー」の孤独の音化の素晴らしさ。第5セクションに現れるフルートによる「人間信頼の旋律」のあまりの崇高さ、神秘性に襟を正す思い。ソローの名著「森の生活」をひもといた。
想像力を害さないような、質素で清潔な食事をととのえ、調理することは容易ではない。だが肉体に養分を与えるなら、想像力に対してもそうすべきであろう。両者はともにおなじテーブルにつくべきである。そうすることは不可能ではあるまい。果物を適度に食べていれば、われわれはおのれの食欲を恥じる必要はないわけだし、最高に価値のある仕事をさまたげられることもない。・・・けれども、食生活が変わらないかぎり、私たちは文明人とはいえないし、紳士淑女にはなれても、ほんとうの男や女にはなれないのである。したがって、われわれがどう変わるべきかは、おのずと明らかである。想像力が肉や脂肪と調和しない理由を問うのはむだなことであろう。私は調和しないと確信している。人間が肉食動物であることは、ひとつの恥辱にほかならないのではあるまいか?
~H.D.ソロー著/飯田実訳「森の生活―ウォールデン下」(岩波文庫)P83-84
ジャン・ジャック・ルソーが言うように、人類は今こそ「自然に還る」べきなのだと。精神を高度に保てば保つほど、ソローの言及も、あるいはアイヴズの音楽も一層現実味を帯びる。
その上で、サミュエル・バーバーのソナタにみる「歌」。アムランならではの轟音と弱音の対比は、まるでセルゲイ・プロコフィエフのそれの生き写しのよう。ここには音楽による米ソの雪解けが垣間見える。あまりの超絶技巧に冠絶の思い。
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