
天才たちは、同時にいくつもの発想が可能だった。
そこには自力だけでなく、まさに天と通じることの可能な特別な術、すなわち絶対他力があったのだろうと思う。
ベートーヴェンはその最たる例。20世紀においてはショスタコーヴィチがそうだった。
例えば、1957年のピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102と交響曲第11番ト短調作品103「1905年」は、同時に作曲された。息子マクシムに献呈されたピアノ協奏曲は、軽快な楽想と瞑想的な美しい音楽が錯綜する絶対音楽であるのに対し、交響曲は「血の日曜日」の凄惨さを描く標題音楽である。
しかしながら、過去の作品の引用や、いかにもショスタコーヴィチらしい楽想が頻出するという点で、両者には共通項がある。外面でなく、内側に感じられる共通性は、やはり人間ショスタコーヴィチの人間臭さであり、暗澹たる詩情である。
・ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102(1957)
ドミトリー・ショスタコーヴィチ(ピアノ)
アンドレ・クリュイタンス指揮フランス国立放送管弦楽団(1958.5.24-26録音)
初演から1年後の録音(初演は1957年5月10日、モスクワ音楽院大ホールにて、マクシムのピアノ、ニコライ・アノーソフ指揮モスクワ・フィルハーモニー交響楽団によって)。
さすがに作曲者自身のピアノは縦横に鍵盤を飛び跳ね、急速な両端楽章において愉悦の爆発を垣間見る(特に終楽章アレグロはショスタコーヴィチの真骨頂を示す)。個人的には第2楽章アンダンテの、ショパンの協奏曲を思わせる、夢見る美しい楽想に痺れる。
クリュイタンス指揮するフランス国立放送管弦楽団の洗練された、ニュアンス豊かな表情に、ショスタコーヴィチの超絶技巧が絡み合う音楽は、文字通り「楽しい」。



