胎児は耳から生じるのだとどこかで聞いたことがある。確かに聴覚というのは人と人とがつながる上で、あるいは自然と人とが一体になる上で大切な器官だと思う。
ハリウッド映画には疎い僕だけれど、映画において使用される音楽が果たす役割はとても大きい。何より音は感性を刺激する。
エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトが生まれて120年目の今日、嬰ヘ長調の交響曲を聴いた。「ハリウッド」と呼ばれ揶揄された天才でありながら、後半生不遇であった作曲家の数多の映画音楽は、実に美しく、古の高雅薫る素敵な作品群である。何より、音だけで映像―シーンを容易に想像させる物語性。この人は視覚にも聴覚にも人一倍長けていたのだろう。
感覚作用に上下の位階はないし、五官はその全体で人間の生を実現するものだが、聴覚と発声が、もっとも生の直接反応に結びついているのは事実だろう。たしかに触覚、味覚、嗅覚の直接性に較べたら、聴覚は音を構成し、組織化するという作用を経るだけ、間接化・知性化されているが、視覚に較べれば、はるかに直接的である。視覚は、光の刺激を映像化し、色・形・大小・遠近に構造化し、そこで初めて外界を掴むことになる。視覚にあっては、見るとは、直接に感覚されるより、学習された概念作用によって外界を作ることが多いのだ。
辻邦生「〈美〉の現れる場所」
~辻邦生編「絵と音の対話」(音楽之友社)P208
久しぶりに辻邦生をひもとき、目の前に飛び込んできた上の文章にはたと目が留まった。僕はこの人の高尚な文体が好きで、これまでいろいろと読んできたが、特に彼がエッセイなどで論じる内容はどれも説得力あるもので、本当に面白い。
おそらくコルンゴルトは現代にも通ずる映画のあり方のきっかけを作った人なのではないか。戦後の、前衛芸術が跋扈する時代に、彼のいかにも浪漫主義的な作風に専門家は背を向けたのだそうだが、これほど感性を刺激する「現代音楽」はなかなかなかろう。
コルンゴルト:
・交響曲嬰ヘ長調作品40
・組曲「空騒ぎ」作品11から~室内オーケストラのための
―第2曲「花嫁の部屋の乙女」
―第3曲「ドグベリーとヴァージェス(夜警の行進)」
―第4曲「間奏曲」
―第5曲「仮面舞踏会(ホーンパイプ)」
アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(1996.5録音)
第2楽章スケルツォの、眼前に映像の開ける音楽性に感動。
また、第3楽章アダージョは、前世紀末の退廃と繁栄の色濃く残る、苦悩と愉悦入り混じる音楽で、心が締めつけられる。まさに絵のない映像美とでも表現しようか。そして、終楽章アレグロの、巨大でありながら簡潔でわかりやすい音楽の妙。
ちなみに、第1楽章モデラート,マ・エネルジーコのうねりと直接的に届く音塊のパワーは絶品。柔らかい弦に対して、緊張感ある咆哮を示す金管と荘厳な打楽器の対比。映画を観るようだ。
この芸術上の理想、内容と形式とのこうした完璧な一致を最も完全に実現しているのは、音楽芸術である。音楽の最高の瞬間においては、目的と手段、形式と内容、主題と表現とのあいだには区別など存在しない。それらは互いに他に帰属し、完全に滲透し合っている。従ってすべての芸術は音楽に、あるいはその完璧な瞬間における状態に絶えずあこがれる傾向があると考えられよう。
ウォルター・ペイター「ジョルジョーネ派」
~同上書P175-176
僕たちに幾種もの想像を許す器楽音楽の完全。
エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは選ばれし人だったのだとあらためて思う。
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「映画」と「音」との関係を考える上で面白かった映画に、監督・脚本 ミシェル・アザナヴィシウス作品「アーティスト 」がありました。
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音が無く、色も無い、そんな世界のほうが幸せな場合もあります。
>雅之様
>音が無く、色も無い、そんな世界のほうが幸せな場合もあります。
何と!こんなものがあったのですか!実に興味深い。
毎度ながら雅之さんの引き出しの大きさに吃驚してしまいます。
ドラえもんの四次元ポケットのようです。(笑)