クリスマス・イヴのシューベルト

battle_christmas.jpg成城のリトル・クローバーという素敵なお店。2月20日(土)に杉並公会堂小ホールで開催される「愛知とし子presentsファンタジー・シリーズ」にご協力いただける作家、心理カウンセラーの晴香葉子さんがオーナーのセレクト・ショップにお邪魔した。先日の「コラボレートコンサート」でお姿は拝見させていただいていたが、ご挨拶をしたのは初めて。NPOポジティブ心理学研究会を主宰されたり、来年の4月からは「銀座大人塾」で講師をされたり、とわずかな時間の少しばかりのお話しで俄然興味を抱かされた。彼女曰く「古典を読め」と。そのココロは「時代や国が違っても『恋愛』に関しての描写は不変なのだ」と。本を通じてひとりひとりが恋愛なるものをもっともっと勉強し、体感すれば世の中もっと明るくなるだろうにと。なるほど、2万人以上のビジネスマンが自ら命を絶ってしまうという世知辛い昨今において、自身を鼓舞し、前向きに生きさせる術は恋をすることが一番の「薬」なのかもしれない。首肯。
余談だが、晴香さんはこの年末年始のために42冊の本を用意しているいうこと。42冊?!どんなスピードで読むのだろうと吃驚した。おそらく速読の達人なのだろう。それにロシア文学やイギリス文学などにも造詣が深そうで、いつかゆっくりとそのあたりについてもお伺いさせていただきたいところである。それに、帰り際プレゼントまでいただいた。妻とお揃いのマフラー。お気遣いありがとうございました。

世間はクリスマス・イヴ。明後日の「早わかりクラシック音楽講座」の最終チェックをしながらシューベ091224_present.jpgルトの音楽を聴く。晩年の諸作は特に涙を誘う。

ミサ曲第6番変ホ長調D.950(ジュリーニ指揮バイエルン放送交響楽団&合唱団)
4つの即興曲D.899&D.935(クリスティアン・ツィマーマン)
歌曲「岩の上の羊飼い」D.965(バーバラ・ボニー&ジェフリー・パーソンズ、シャロン・カム)

30~31歳のシューベルトは自身の「死」というものを意識していたのだろうか?まだまだやりたいことはたくさんあっただろう、あるいは頭の中に鳴り響く音楽も大いにあったことだろう。なのに、モーツァルトの最晩年同様、「無の境地」の「純白の世界」が作品を覆う。思わず胸が締めつけられるほどのこの透明感は一体どこから来るのか?

バトル―クリスマスを歌う
キャスリーン・バトル(ソプラノ)
レナード・スラットキン指揮ニューヨーク・コーラス・アーティスツ、ハーレム少年合唱団及び聖ルカ・オーケストラ

クリスマスにまつわる古謡からクラシック音楽、黒人霊歌などバトルの美しくも可憐な歌声で室内が満たされる。シューベルトの「アヴェ・マリア」。これは本当に綺麗だ。一般には、バッハ&グノー作の同曲が有名だが、僕はシューベルト作に軍配を挙げる。

晴香葉子さんがおっしゃるように、現代人は古今東西の「古典」から多くを学ぶべきである。ともかく残された傑作を一冊でもたくさん読んだ方がいい。それと同様、何百年という歴史をもつクラシック音楽の深遠な世界に触れることも大切だ。作曲家の人生に触れ、ある時代のある土地で、ある瞬間にその人が何を感じながらどういう音楽を創造したのか・・・。そこには苦しみもあり、喜びもあったろう。もちろん癒しもだ。全ての感情を網羅しつくした宝箱。それがクラシック音楽なのである。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。
前回の岡本さんのコメント欄でのお言葉、
>モーツァルトもシューベルトも短い人生だったがゆえの「必然性」があったように思います。
は、違うと思います。短い人生だったがゆえの「必然性」・・・、当人は絶対そんなことは思っていなかったはずです、後世の人が勝手な感慨にふけるだけで・・・。
およそクリエーティブを生業としている人にとって、「これで私の人生、やり残したことはない」などと、最期まで思うはずがないです。朝比奈先生の言われた「生涯現役」、この気概とハングリー精神がなかったら芸術家稼業なんか出来るわけがありません。若くして死せば尚更悔しいでしょう。
ちょっと考えても、モーツァルトは決してあんな形で「レクイエム」を残したくはなかったはずですし、シューベルトはハイネの詩との邂逅が遅すぎた故に「白鳥の歌」での6曲しかハイネ歌曲を残せなかったことが、さぞかし無念だったろうと察しています。バッハは「フーガの技法」を、マーラーは第10交響曲を、ブルックナーは第9交響曲を、エルガーは第3交響曲を、やはりさぞ完成させたかったことでしょう。
それに、死に対してはどんな宗教や思想信条を持っていていようと現世の家族や友人達との関係性との別れは辛いものだし、無念さが無くなるはずもありません。因みに私は、コンサートやCDを聴いたり書物を読む時間が圧倒的に足りないという切実な理由もあり、あと3万年は生きるつもりです。CDの寿命は30年ともいわれていますが・・・。
バトルのクリスマス・ソング、いいですね、私も大好きです。
私は昨夜、カンゼル&シンシナティ・ポップス管弦楽団 による「くるみ割り人形」のハイライト版を、SACDで聴いていました。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2632034
※ところで岡本さんにクイズです。
初心者や素人がよく気付き、専門家は何故かほとんどが見落としているかその事実を無視する、シューベルトからの影響をモロに感じさせるチャイコフスキーの曲とは、さて何でしょう?

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>短い人生だったがゆえの「必然性」・・・、当人は絶対そんなことは思っていなかったはずです、後世の人が勝手な感慨にふけるだけで・・・。
もちろん本人に自覚はなかったと思います。人にはそれぞれ「寿命」というものがあり、シューベルトや坂本龍馬に与えられた時間が31年、モーツァルトが35年、そして朝比奈先生が93年だったということなんだと僕は思うのです。
また、キャリア理論で有名なクランボルツ博士がキャリアにおける「計画された偶発性」(Planned Happenstance Theory)というものを提唱しているのですが、音楽家の場合も(というより人間なら誰でも)同様のことが起こっていると思います。
ちなみに、「計画された偶発性」理論とは、予期しない出来事がキャリアを左右するのだが、その予期しない出来事も実は計画されているものなんだというものです。
ブルックナーの9番も「未完成」であったがゆえの完成度を持っていますし、モーツァルトの「レクイエム」についてもああであるがゆえの存在感もあると思うのです。
もちろん本人は無意識だから顕在的には悔しかっただろうと想像に難くないですが。
まぁ、一方で雅之さんがおっしゃる「後世の人が勝手な感慨にふけるだけ」というのも実際ありますけど(苦笑)。それにもしこういう歴史の悪戯がなかったら雅之さんが愛好する「トルソー作品」も一切消えてしまうわけですから切ないですよね。これこそがまさに「必然」なのです。ちょっと無理やりですかね??(笑)
>コンサートやCDを聴いたり書物を読む時間が圧倒的に足りないという切実な理由もあり、あと3万年は生きるつもりです。
確かに!!時間足りませんよね・・・。
カンゼルのこの盤は聴いておりませんが、そういや彼も癌で亡くなってしまって・・・。
>シューベルトからの影響をモロに感じさせるチャイコフスキーの曲とは、さて何でしょう?
えーー!!何だろう??「悲愴」?「白鳥の湖」?ひょっとして「アンダンテ・カンタービレ」?・・・いや、これはわかりません。教えてください。

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雅之

こんばんは。
「計画された偶発性」ですか! 量子力学の確率解釈など先端物理学にも関係しそうで、とても興味深いです。
シューベルトからの影響をモロに感じさせるチャイコフスキーの曲の件ですが、そうです、その曲とは、「白鳥の湖」の、あまりにも有名な(情景 第2幕)です。
http://www.youtube.com/watch?v=Fo1pGzSkTJA&feature=related
シューベルトの「未完成」第1楽章と同じロ短調、しかも「白鳥の湖」(情景 第2幕)のオーボエの出だしと、「未完成」のオーボエ&クラリネットの出だしの2音は、まったく同音です。
http://www.youtube.com/watch?v=DItLZ5UsgyU&feature=related
また、チャイコフスキーは交響曲「悲愴」もロ短調(第1・第4楽章)、「未完成」第1楽章と同じ調です。明らかにチャイコフスキーは、シューベルトの影響を受けていると思います。
偶々、「CDジャーナル」(音楽出版社)2010年1月号を読んでいたら、テノール歌手のマーク・パドモアの記事(50ページ)があり、彼はこんなことを語っています。
「とくに『冬の旅』の場合、フィッシャー=ディースカウに代表されるバリトン歌手を連想される方が多いでしょう。しかし元々は高声用の歌曲集。死を希求するような感情に染まった音楽に対して“若さ”という自己矛盾をつきつけるテノールの声質こそが、この作品にふさわしいと思う。私は現行出版譜で低く移調された曲も自筆譜どおりのキーで歌います。すると終曲の〈辻音楽師〉が、前の曲と同じイ短調ではなくロ短調で終わる。つまり最後に作品は異なる世界へ足を踏み入れる。『白鳥の歌』の〈ドッペルゲンガー(影法師)〉もロ短調。晩年のシューベルトにとって象徴的なキーなのです」

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雅之

ショスタコの第6交響曲も「ロ短調」絡みで、「未完成」「悲愴」と同じ系譜かもしれません(以前岡本さんにお渡ししましたDVDの、バーンスタインによる曲の解説を参照してください)。
・・・・・・チャイコフスキーの「悲愴」とこの曲は共に交響曲第6番で、ロ短調。そして「悲愴」は音楽史上初めて、長くゆったりとした終楽章を持ってきており、ショスタコーヴィチの第6番は、音楽史上初めて、長くゆったりとした第一楽章になっている。これは偶然などではなく、ショスタコーヴィチの第6番は、「悲愴」を受け継いでいるのである。・・・・・・(『ウィキペディア』「バーンスタインによる解釈」より引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
本当に雅之さんのコメントには毎々感服させられます。
勉強させていただいているという感じです。あとわずかで2009年も終了ですが、この1年間ありがとうございました。
なるほど!と膝を打ちました。間違いなくチャイコフスキーはシューベルトの影響を受けていますね。
それとテノール歌手のマーク・パドモアの記事も興味深いですね。じっくり研究してみる価値は大いにありそうです。
ショスタコの6番についてもおっしゃるとおりですね。明らかに「悲愴」の衣鉢を継ぐもののように思われます。
今夜も勉強になりました。m(_ _)m

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