考えること、感じること

sibelius_vn_concerto_kavakos_vanska.JPG以前クラシカ・ジャパンで放映されたドキュメンタリー「ポートレート『ジャン・シベリウス』」を観ていて、かの大作曲家もプレッシャーにはことのほか弱く、都会の喧騒に塗れながら自身の創作活動にいつまでも自信が持てず酒と煙草に浸る日々が続いたことをあらためて確認した。芸術家は大衆から評価を受けない限り「芸術家」として決して認知されないわけだから、いくらインスピレーションが湧いて出たとしても人々に受け容れられるかどうかが常に心配の種なんだろう。クリエイターではない僕などはのんびりとした暢気な性格ゆえいつでも「どうにかなる」と考えてきたものだから周りからは随分呆れられてきたが、今の今まで「何とか生きてきている」わけだから、人間やるべきことを普通にやっていれば必ず助けてくれる人もいるし、上手に渡っていけるものなんだと思うのだけど。

僕は長い間セミナーに携わってきて、人間本来の直感力、インスピレーションの凄さを常々垣間見てきた。頭で考えるより、明らかに感じることを優先する方が正しいのである。例えば人間関係の場合、たとえ相手が初対面だとしても少なくとも半分くらいは相手のことを言い当てることができる。家族構成や血液型、職業などの属性はもちろんのこと性格的なことまで含めても吃驚するような割合で相手を読めるのだ。これこそは人間が生まれながらに持ち合わせている「脳力」なのである。

教育で何を学ぶのか?もちろん人として正しい生活を送るための常識やルール、最低限の教養を身につけるという意味はあるが、得る必要のない「癖」まで身につけてしまう。過剰な自己防衛。あるいは、人を思い遣れない自己中心性。本来あるべき自分に戻ること。ありのままの自分自身を思い出すことがやっぱり鍵なのだろう。

シベリウスのドキュメンタリーを観ながらそんなことを思うと同時に、彼が書いた唯一のヴァイオリン協奏曲のオリジナル稿について考えてみた。ブルックナーの場合も然りだが、こういう初稿は作曲家の頭に最初に鳴り響いたものであり、しかも楽譜として残されているわけだから、作曲家に発表の意思があったことは明らかなのだから作品として間違いなく「自立したもの」である。しかし、聴衆や批評家、あるいは仲間に助言を仰ぎ、否定的な見解をもたれると、気の弱い彼らは即座に自身の考えを改め、より大衆に受容されやすいようにと筆を代える。確かに推敲を経て生み出された最終稿のもつ威厳や完成度に優るものはないだろう。とはいえ、前述の「インスピレーション」という観点から考えた時に、やはり「最初に」出てきた音楽こそがその音楽家の「本来の姿」を表す音楽なのではないかとも思うのである。その音楽が粗削りであったとしても、そこに流れる感性こそが彼らの真の言葉であり想いなのである。

シベリウス:
・ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品47(オリジナル1903/4年版)
・交響詩「森の精」作品15(1894)
・メロドラマ「森の精」作品15(1894)
レオニダス・カヴァコス(ヴァイオリン)
ラッセ・ポイスティ(朗読)
オスモ・ヴァンスカ指揮ラハティ交響楽団

シベリウスがヴァイオリン協奏曲を改訂しようとした理由はいくつかある。ひとつは初演そのもの-ヴァイオリニストの技術に満足しなかったこと。もうひとつが批評家たちの意見、ことにカール・フローディンという評論家の酷評が多大な影響を与えているようだ。

曰く、「ノヴァチェク(初演ヴァイオリニスト)の演奏は、喜びを奪う要素を数多く含んでいた。時としてひどい音が聴こえた。作曲者の意図を読み取るのが不可能なほどの不協和音であった。」
曰く、「このヴァイオリン協奏曲は、過去の天才たちの創作によって培われたこのジャンルの伝統からは、はずれている。率直に言ってこの協奏曲は、退屈であり、ジャン・シベリウスの作品であるとは思えない。」

他人のこういう意見に左右されてしまうのは世の常なのかな。皆もっと自信をもてばいいのに・・・。実際オリジナル稿の「素のまま」の姿は聴くたびに発見をもたらしてくれる。素晴らしい出来だと僕は思う。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>実際オリジナル稿の「素のまま」の姿は聴くたびに発見をもたらしてくれる。素晴らしい出来だと僕は思う。
同感です。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲初稿には、捨て難い良さがありますね(特にソロ・ヴァイオリンのカデンツァ、バッハのように深い!)。ご紹介のCDは私も昔から大好きですよ(事業仕訳の対象外、つまり聖域・・・笑)。
>やはり「最初に」出てきた音楽こそがその音楽家の「本来の姿」を表す音楽なのではないか
それはどうでしょうね? ブラームスのように、推敲を重ねた結果、思考の産物として出てきた最終形の完成作品も、音楽家「本来の姿」には違いありません。
作品を練り上げ完成させるという行為は、「引き算の美学」の追求ではないでしょうか? 霊感優先のモーツァルトやシューベルトだって、一部作品の自筆譜資料では、推敲を重ねた形跡を残しています。
「アクアマリン」のオフィシャル・サイト
http://www.aqumari.com/
で、私が大好きになった人気合唱曲「COSMOS」の原作者、ミマスさんは、「歌をつくろう」『6.作詞のコツ1』の中で、こんなことを書かれています。勉強になりました。
・・・・・・作詞をはじめてまもない頃は、詞というより作文のようなものができてしまいます。
作文調のものを詞らしくするには
「言わなくても伝わる言葉をどんどん削る」ということに尽きます。
例を挙げてみてみましょう。
『金星』(まるで作文)
遠い山のシルエットが見える 絹のような雲が赤く染まっている
僕ははなやかな大通りを通り抜けて 街の外れに来るよ
西風が音を立てながら 土の匂いを運んでいる
いつもと変わらない風景が こんなに悲しく見える
赤く染まってゆく空の中で ひとりだけ強く光っている
それはゆらめかないで 何もいわないで 聞こえるのは風の音だけ
『金星』(詞らしくなる)
遠い山のシルエット 赤く染まる絹雲
はなやかな大通りを抜けて 街外れに来る
音を立てる西風が 運ぶ土の匂い
いつもと変わらぬ風景が こんなに悲しくなる
赤くなる空の中で ひとりだけ強く光る
ゆらめかず 何もいわず 風の音だけがする
どんな言葉が削れるでしょうか。・・・・・・
・・・では、雅之がチャレンジ!(笑)
『金星』(雅之 改訂版)
遠い山のシルエット 赤く染まる絹雲
街外れ 音を立てる西風が 運ぶ土の匂い
見慣れた風景が こんなにも悲しい
赤い夕闇に ひとりだけ強く光る
ゆらめかず 何もいわず 
金星のように 僕は強くなりたかったんだ
う~ん、良くなったのか悪くなったのか???
(やはり最後の足し算が蛇足でしたか・・・シャルクか俺は・・・笑) 

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>やはり「最初に」出てきた音楽こそがその音楽家の「本来の姿」を表す音楽なのではないか
これは極論ですね。自分でも言い過ぎだと思います(苦笑)。「推敲を重ねた結果、思考の産物として出てきた最終形の完成作品」=「引き算の美学」の追究というのはよくわかります。捨てることって大事ですね。
ミマスさんの作詞のコツ勉強になります。
確かに要らない言葉を削ってゆくと詞らしくなりますね。
雅之さんの改訂版素晴らしいです。最後の足し算もいいんじゃないですか?おっしゃるとおりシャルクのようですが(笑)。

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