大震災以来の放射能問題の真実を政府やマスコミはいつまでひた隠しにするのだろう。噂では、被ばくにより死に至る人も実際には多いのだとか。何がほんとで何が嘘で・・・、一般庶民に知る権利はないというのだろうか。
久しぶりに高村光太郎「智恵子抄」に目を通す。真に壮絶なり。そして、そこには大いなる「愛」が存在する。
私にあなたが無いとしたら―
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為に生まれたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある
(大正2年3月)~「人類の泉」より抜粋
読む側が気恥ずかしくなるほどの告白!!しかし、それを「人類の泉」とまで表した光太郎のセンス!!
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
(昭和3年5月)~「あどけない話」
純粋無垢な感性の持ち主だった故の妻智恵子の精神破綻をこうも「くっきりと」表現しうる光太郎の筆致は見事としか言いようがないが、なぜか上記の詩が「あどけない」ものとは決して思えない。
智恵子は新鮮で透明な自然への要求を、日に日に精神を病みゆく中、様々な形で満たそうと試みたらしい。家の周囲の雑草の写生、植物の栽培と、生野菜を食すること、そして宮澤賢治同様、ベートーヴェンの「田園」交響曲のレコードをこよなく愛したという。そんな感覚の持ち主であったのだから、やっぱり「真実」を見ていたのだろう(感覚の鈍った我々こそが虚像、あるいは幻想に踊らされている)。
ところで、本日はモーツァルトの220回目の忌日である。智恵子はもちろんモーツァルトも知っていたはずだ。彼女ならどの作品を好いたのだろう?K.595やクラリネット協奏曲という晩年の透き通るような音楽だろうか、やっぱり・・・。それとも、2つのト短調シンフォニー、あるいはK.516のような哀しみを湛えた短調作品か・・・。
僕は想像する。ここは今や遺作といわれるホルン協奏曲などではないのか、と。明朗でありながらどこか悲哀を示す旋律と、何より緩徐楽章をもたない未完であるところ(実際には紛失されたものなのだろうけれど)。
モーツァルト:ホルン協奏曲全集
アントニー・ハルステッド(ナチュラル・ホルン)
ロイ・グッドマン指揮ハノーヴァー・バンド
オリジナル楽器によるモーツァルト・シリーズからの1枚だが、正直僕は好かない。時代考証的には合致しているのだろうが、時空を超えるモーツァルトの音楽にはそぐわない。モダン楽器による重厚な演奏に愛着を感じる・・・。今宵、冷たい夜風と戯れて酔いを冷ます・・・。