ムーティ指揮バイエルン放送響のケルビーニ「シメイにて」(2003.3Live)を聴いて思ふ

ハイドンやモーツァルトを尊敬したケルビーニ。
ベートーヴェンとも親交のあったケルビーニ。
当時の作曲家は、国や年齢は異なれど、互いに刺激し合い、また大いに影響し合ったのだろう。実際、ケルビーニが1809年、ベルギーのシメイの村人たちからの要望により作曲したミサ曲には、そこかしこにモーツァルトやベートーヴェンの音楽が木魂する。
例えば、第1曲「キリエ」には、「フィデリオ」の「囚人たちの合唱」にも似た旋律が登場する。あるいは、第2曲「グローリア」後半には「魔笛」の木魂が・・・。
何とも喜びに満ちた、祝祭的な響きを持つこの宗教作品は、どの瞬間も美しく、そしてとても愛らしい。

日常的に頻繁に聴かれることが少ないであろうミサ曲。ましてや、余程のことがない限り日本のどこかのホールの舞台にかけられることはないだろう。埋もれたままにしておくのは本当にもったいない。

・ケルビーニ:ミサ曲ヘ長調「シメイにて」(1809)
ルート・ツィーザク(ソプラノ)
ヘルベルト・リッペルト(テノール)
イルダール・アブドラザコフ(バス)
バイエルン放送合唱団
リッカルド・ムーティ指揮バイエルン放送交響楽団(2003.3.5-8Live)

そして、第4曲「サンクトゥス」での合唱の熱唱が聴く者を金縛りに遭わせる。何という解放!!また、続く第5曲「ベネディクトゥス」での、3人の独唱陣による重唱の妙なる美しさ!!

ちなみにケルビーニは、同時代の若き作曲家にもおそらく多大な影響を及ぼしたのだろう、第1曲「キリエ」冒頭にはシューマンの交響曲第4番の主題も聴こえてくるようだ。それに、1823年12月のこと、少年フランツ・リストは入学のための推薦状をもってパリ音楽院の院長であったケルビーニを訪ねたものの、見事に拒否されたというエピソードも残されている。後年のリストの回想には次のようにある。

私の音楽院への入学許可には、いくらか障害はあるだろうと予期してはいましたが、授業に外国人が参加することを禁じる規則があるとは、その時までわれわれは知りませんでした。・・・私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした。
福田弥著/「作曲家◎人と作品シリーズ リスト」(音楽之友社)P16

13歳のリストの失望たるや・・・。
しかしながら、当時の音楽院が外国人の入学を認めていなかったのは、リストにとってある意味不幸中の幸いだったという意見もある。なぜなら、当時の旧態依然としたアカデミズムとは相いれなかったであろうリストの自由奔放な創造力が、音楽院で学ぶことによって削がれた可能性がなきにしもあらずだからだそう。納得。
なるようにしかならないと言えばそれまでだけれど、すべては必要にして必然ということ。ルイジ・ケルビーニの音楽は本当に素晴らしい。

 

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