罪を憎んで人を憎まず

孔子曰く、罪を憎んで人を憎まず。
どんな出来事にもその裏には特別な事情や理由があり、しかもその理由も360度の観点から見てみないと理解できないことが大半。なぜその人がそういう行動をとったのか、その人の立場になって考えてみることが本当にできるようになれば理解するのは早い。
人間の関係はどんな場合もフィフティフィフティだとやっぱり僕は思う。被害者も加害者も5対5。被害に遭うには遭うなりの理由が必ずあるし、すべての事象が自らの鏡であるとするならどちらかというと自らを反省モードに入れた方が結果的に賢明(この見解については賛否両論あるでしょうが)。

自然や宇宙を前にしたらば人間の力など赤子同然。過信せず、やることだけを全力でやり、あとは運を天に任す、果報は寝て待て的に焦らず慌てずいることが一番。「人生いろいろ」だが、9月最後の日にあらためて、冷静に振り返ることができた、そんな感じ・・・。

明日からすみだ学習ガーデン2011年10月講座「早わかりクラシック音楽入門講座」がスタートする。市民講座に出講するのは初なので、さてどんな方々が参加されるのか楽しみ半分、不安半分。いずれにせよ、これまでの経験、知識をもとに皆さんに喜んでいただこうという姿勢さえ忘れずに臨むこと。ちなみに、第1回は「クラシック音楽を楽しもう!」と題して音楽史を簡単に俯瞰し、ソナタ形式について理解していただこうと考えている。
ということで、聴いていただく音盤を選り分けていて、発見した久々のCD。

モーツァルト:
・交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」(1955.11.6Live)
・交響曲第40番ト短調K.550(1956.6.24Live)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

きちんと聴き比べしたわけではないので何とも言えないのだが、この第40番は昔さんざん聴いて感動したCBSソニーから出ていたもの(1952.5.18Live)と同じじゃないのかと一聴思った。しかしながら、そもそも公演日が違うし、楽章毎のタイミングも違う。例の第1主題の独特のポルタメント奏法とワルターのうなり声の雰囲気からそんなことを思わせるのだけれど・・・(よくよく調べると当時のワルターはウィーン・フィルとの演奏では必ずこういう解釈をとっていたみたい・・・しかし、HMVのサイトでは同一演奏だとの記述もある。どっちが本当??いずれ時間のある時に比較試聴してみよう)。

モーツァルトの音楽、それも名作第40番シンフォニーを、不滅の演奏で堪能するだけですべてに寛容になれる。理解して承認してしまえば何事も許せるものだ(その前に徹底的にコミュニケーションを図ることだけれど)。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

柴田南雄氏による、もう35年以上も前の鋭い指摘を思い出しました。

・・・・・・先日、ブルーノ・ワルターが、1952年にヴィーン・フィルと録音したモーツァルトのト短調、第40番(CBSソニー SOCO110)を、若い弦楽器奏者たちときいたが、冒頭のテーマのdからbへの六度の跳躍に盛大なポルタメントがかかっているのには、みんなでワッと大笑いした。わたくしも、じつはまっ先に噴き出した。つづくcとaの間の六度も同じだ(その後、わたくしが作曲を教えている小学上級生たちに、何もいわずにこのレコードをきかせたら、中の一人が「うぁ、このブワンてのは何だ?」といって笑いだした)。とにかく、わずか20年あまり前まで、ヴィーン・フィルにはこういう弾き方が残っていたことに驚かされる。正確にいうなら、要求されればそれができた、ということで、当時もけっしていつも、ああやっていた訳ではないに決まっているが。
 しかし、そのレコード評が出はじめると、あのポルタメントが大へん有り難いもののように絶賛されているのには、正直いって戸惑いを感じる。たしかに古き良き時代の表微の一つではあるが、ポルタメントそのものが美しいとは思えない。いったい、何のためのポルタメントか、といえば、あの場合ならモチーフ冒頭のes・d・dの反復を2と1の指で弾き、そのまま手の形を保持してA線上をずり上げ、2か3の指でbに到達して直ちに(この直ちにが大切だ)開始し、それによって跳躍する前の、低いesやdとまったく同質、同音色のbを、ゆたかにたっぷりと響かせる、そのためのいわば必要悪としてのポルタメントなのだ。一般に広い音程跳躍の前後の音色を均一に保つにはこうするしかない。
 もし近代的な奏法で、bをサッと4の指をのばしてつかむ(いわゆるシュラーゲン)とか、いっそE線でとるかするなら、b音はずっと明瞭に浮き上がるが、低いesやdとはどうしても異質な音になる。ワルターも、あのポルタメントそのものを要求したのではあるまい。今のような要求を出し、それにヴィーン・フィルが応じた結果が、あのポルタメントとなって残ったのだろう。・・・・・・
〈ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(クライスラー、シェリング、グリュミオー)「私の音楽ノート31」、1975年7月号「ステレオ」〉より

このポルタメントの場合も、

>どんな出来事にもその裏には特別な事情や理由があり、しかもその理由も360度の観点から見てみないと理解できないことが大半。なぜその人がそういう行動をとったのか、その人の立場になって考えてみることが本当にできるようになれば理解するのは早い。

>理解して承認してしまえば何事も許せるものだ

ということが当てはまるのかもしれませんね。

※「早わかりクラシック音楽入門講座」の新たなスタート、お歓び申し上げます。
益々のご発展をお祈りいたします。
 

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
柴田南雄氏の指摘はいつも本当に鋭いですね。
ワルターがポルタメントそのものを要求したわけじゃないというのがポイントですね。
楽器演奏のテクニカルな点に関してはよくわかりませんが、あの表現にこういう事情があったとは初めて知りました。ありがとうございます。

>「早わかりクラシック音楽入門講座」の新たなスタート、お歓び申し上げます。
ありがとうございます。
がんばります。

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アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » 東京に空が無いといふ

[…] ところで、本日はモーツァルトの220回目の忌日である。智恵子はもちろんモーツァルトも知っていたはずだ。彼女ならどの作品を好いたのだろう?K.595やクラリネット協奏曲という晩年の透き通るような音楽だろうか、やっぱり・・・。それとも、2つのト短調シンフォニー、あるいはK.516のような哀しみを湛えた短調作品か・・・。 僕は想像する。ここは今や遺作といわれるホルン協奏曲などではないのか、と。明朗でありながらどこか悲哀を示す旋律と、何より緩徐楽章をもたない未完であるところ(実際には紛失されたものなのだろうけれど)。 […]

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